目を開くと、和泉の柔和な微笑みが上にあった。

 澪は身を起こし、頭を押さえてゆっくりと首を左右に振った。

 全身が気怠い。
 がんがんと脳を揺るがすような頭痛に吐き気も催す。
 口元に手をやると背中をさすられた。
 和泉に支えられている身を捩(よじ)り地面に俯せになる。

 ころんと小舟が落ちてひっくり返った亀のように足をじたばたさせ、起き上がった。その時になって初めて自分の身体の上に小舟がいたことを知り、咄嗟に謝ろうとするも胃からせり上がる灼熱に口を押さえた。


「大丈夫かい」

「……っ」


 ごぱっ。
 口から勢い良く噴出された吐瀉物(としゃぶつ)が手を押し退け地面に落ちた。
 赤い。
 赤い胃液だ。
 その中にはびくびくと痙攣する肉片が多数混ざっている。女の指らしき物もあった。
 それだけで自分が今までどんな状態であったのか、はっきりと分かった。

 そう、か。
 私……また……。
 くっと口角がつり上がる。小さな笑声を漏らした。

 記憶を引き寄せればすぐに蘇る。
 道満に黄泉のモノを入れられた私は、中途半端な状態だったにも関わらず、暴走した。
 たちの悪い暴走だった。
 あの時よりもずっと強くてしつこい飢えを満たしたくて餌を求めた。

 それが、仕事寮の方々だと、私は認識していなかった。

 もう一度、吐く。
 また吐く。
 まだまだ吐く。

 止まらない。
 中から飛び出してくる物が止まってくれない。

 背中を優しくさすってくれる和泉にも、源信にも、小舟にも金波銀波にも、己の中から吐き出される見苦しい真っ赤な異物が見えている。
 罪悪感に息が苦しくなる。


「はあ……はあ……っうぐ、おぇ……っ」

「無理に止めては駄目だ。楽になるまで吐くんだ。澪」


 和泉の言葉は、優しい。
 けれどもぐわんぐわんと奇妙な音が響く頭では、それも雑音にしか認識出来なかった。
 『楽になるまで』――――私は一体何度吐けば楽になるだろう。
 分からない。

 それ程に、咽を這い上がってくる赤い異物は止まらない。腹はすっきりとしてくれない。

 何度も何度も吐き続けて、吐き続けて――――ようやっと収まった時には、澪の顔色は死人のように悪く、ぐったりと和泉の身体にもたれ掛かっていた。
 周りは澪の吐き出したモノで大きな水溜まりが出来ている。腐臭が立ち上り、それによってまた吐き気がこみ上げてくる。

 和泉は澪を抱き上げ、源信に目配せした。

 源信は頷き、金波銀波を呼ぶ。まだ歩けそうにない銀波を支えてやる金波は、歩み寄ってきた小舟を肩に乗せ、ゆっくりと源信の方へ近付いた。


「じゃ、少し道を戻ってまた休憩をしようか」

「ええ。宮様。くれぐれも澪のこと、よろしくお願い致しますね」

「うん。了解」


 和泉は片目を瞑(つむ)り、歩き出した。



‡‡‡




 さらさらと水の流れる音がする。
 小川がある。

 澪は和泉を見上げ、小川を見た。
 餌を追いかけていた間の記憶は他に比べてやや曖昧で、小川を走っていないとは覚えていない。
 だから何も言わず、畔(ほとり)の大岩に下ろされ大人しく座った。

 源信が側に片膝を付き、澪に小舟を抱かせる。顔色を確認しながら首筋に指を押しつけ脈を計った。

 小舟は澪の胸に顔を押しつけ、存分に甘え出す。小さな手で服を掴んで放さない。


「気分はどうですか」

「身体が怠いです、とても」

「そうですか……では、もう暫くここで休みましょう」


 それは出来ない、と腰を上げようとしたが、金波がすかさず止めた。
 未だぐったりとしている弟を見やり、静かに首を左右に振る。金波自身も顔色が芳(かんば)しくない。
 この状態では俺達はあなたをお守り出来ませんと視線で告げられた。

 やむなし、か。
 細く吐息を漏らし、澪は肩を落とした。
 元はと言えば道満の思惑通りに暴走し、和泉達に襲いかかった自分が悪い。
 目を伏せ、呼吸二回分程の間を置いて、澪は源信達に深々と頭を下げた。


「澪、まだ身体が」

「黄泉にてお役目をいただいている者であるにも関わらず、ああもたやすく道満様の手に落ち、現世の方々、いえ、皇位を継承する方を餌をと見なし襲ってしまうなど、本来あってはならぬことでございました。まことに申し訳ございません」


 和泉は澪の頭を撫でた。「顔を上げて」


「俺は別に気にしてないよ。あれは、俺達が背負うべき罪だったんだ。君達は帝が世を治める為に犠牲にした人々。俺がこれから先、絶対に無視して生きてはいけない思いだった。むしろ、受け止めるべき俺が君を戻したんじゃなくて、金波と銀波に無理させて助けた結果がとても情けなくて申し訳ない」

「……いいえ。本来は、私が抑えるべき意識でした」


 もう一度頭を下げると、また撫でられる。


「それよりも、金波と銀波にかけてあげる言葉があるだろう?」

「……」


 澪は頷いた。
 立ち上がり、金波銀波の前に座る。
 彼らにも深く頭を下げた。


「金波、銀波。ありがとうございます。私に至らぬばかりに迷惑をかけてしまって、すみません」


 金波はゆっくりとかぶりを振った。


「いえ。これが俺達の役目ですから。俺達を拾って下さった澪様のお役に立てて嬉しい限りです。現世の人間の力を借りなければならぬ体たらくではございましたが」


 金波の苦笑につられそうになり、澪は口角を痙攣させた。俯いて誤魔化した。

 金波は空を見上げ目を細めた。


「澪様。俺達が回復するまで待ってはいただけませんか。さすがにこの状況、今の状態では満足な動きが出来ません」


 それは本心でもあるだろうが、澪を気遣っての言葉だろう。
 澪は暫し沈黙し、溜息を漏らした。


「……分かりました」

「では、わたくしは周りを見て参ります。この中で一番体力の消費が浅いのはわたくしですから」

「俺も行こうか?」

「宮様には、四人の護衛をしてもらわなければ。あの場所で何が起こっているか分かりません。こちらにも何かしらの影響が出ないとも限りませんので、澪達をよろしくお願い致します」

「分かった。だけど源信も気を付けて」


 源信はやおら頷き、錫杖を手に歩き去る。

 和泉は己の得物を見下ろし、唇を引き結んだ。
 懐には源信が入れてくれた八咫鏡がある。
 布越しに感じる硬い感触に心臓も硬くなっていくような気がする。
 深呼吸をして、大岩のある方を強く見据えた。

 その様子を、黄泉に住まう四人がじっと見つめている。



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