澪が気を失ってすぐに山犬は力尽きたようにその場に崩れた。
 呼吸荒く、腹をぴくぴくと痙攣させてすぐ光に包まれた身体は二人の少年に戻ってしまう。
 二人は酷く疲弊していた。余程の気力を消費するようだ。汗ばんだ顔は土気色に血の気が失せ、わなわなと震える唇も紫色になりかけている。今にも倒れてしまいそうだ。


「目が覚めれば元の澪様です」


 案じた源信が側に屈み込んで声をかけると、金波が、力は無いが達成感が滲み出た誇らしげな笑みで、言った。彼の視線の先には和泉に抱えられた澪がぐったりとしている。
 鏡を持った彼女の姿は、もうすっかり元の姿だ。角も無い。

 では澪の中に無理矢理溶け込んでいた黄泉の異物は?
 探せば和泉の足下に黒い染みが広がっている。焦げたようにも見えるそれが、黒い物体の成れの果てだった。


「澪様の身体の中から……あれを、追い出しました。浄化したのでもう、復活はしません」

「そうですか……本当に、お疲れ様でした」


 心からねぎらう源信を見上げ、金波は何処か懐かしそうに、眩しそうに目を細めた。

 彼の頭を撫でた源信が、腕の中で身動ぎした小舟を今なら大丈夫だろうと下ろすと、小さな両手を前に出してとてとて危なげに和泉の方へ歩いていった。
 和泉も安堵した微笑で小舟を迎え、よじよじと身体を登ってくる彼の好きにさせた。自身は金波銀波に視線を戻す。

 金波は深呼吸をして、頭を掻いた。暫し地面を見つめた後、ぼそりと、


「お教えした方がよろしいか?」


 問いかけた。

 彼の言わんとしていることを察し、和泉は目を細め、


「こんな俺に教えても良いと、君達が思うのなら」


 金波が視線を上げる。銀波を見、視線で問いかける。
 銀波は和泉と源信を見やり、目を伏せ肩をすくめた。片手を立て、左右に軽く振る。

 諦めたとも拒絶とも取れる弟の意思表示に、金波は小さく頷いた。
 まるで傷跡でもなぞるかのようにゆっくりと首筋を撫で、肌にそっと爪を立てた。


「俺達も澪様達と同じ、生贄として人の生を終えました」

「あなた達も、生贄に……」

「……ですけど、澪様達と違って、俺達は自ら身を差し出したんです。俺達を助けてくれた人々に受けた大恩に報いる為に」


 源信が軽く驚く。痛ましげに眉を下げたのに金波は首を振って笑ってみせる。


「俺達も、生きていた頃はまつろわぬ民でした。澪様達の生きておられた頃よりも後の時代に、とある山岳に暮らす民族の、族長の子として生まれました。名前も、今の名前とは違う……」


 彼らの今の名前は、澪に与えられたものだという。元々の名前は覚えているが誰にも教えずにいる。それは、家族が、民族の仲間が――――生きている自分達が出会った人々に呼ばれた名前であるから、記憶と共に大切にしまっているのだった。
 彼らにとっては、大切な宝物だろう。
 柔らかな笑みがそう物語る。

 だがまつろわぬ民であったのなら、その生は過酷であったに違い無い。
 和泉は深呼吸をし、黙って耳を傾ける。


「その民族は、すぐに滅ぼされました。生き残ったのは、皆に逃がされた民族唯一の子供だった俺達だけ。俺達は木の根や虫を食いながら生きながらえ、歩いたことも無かった平地をさ迷い、とある村に辿り着きました。そこは、北の山に住む山犬を先祖代々神と崇めていましたが、帝へ従属し存続することを選んだ人々の村でした」


 その村は双子を手厚く保護してくれたのだという。
 自分達はまつろわぬ民。必ず迷惑をかけてしまうと一日の宿だけで村を出て行こうとした双子の子供を、彼らは放ってはおかなかった。
 その村長の養子にし、一人前の男になるまで面倒を見ようとしてくれた。
 村の世話になっている間は喪ってしまった皆が戻ってきたみたいで、とても懐かしくてとても嬉しかったと、金波は赤い目を滲ませる。銀波は俯いている為表情は見えない。


「俺達が拾われた翌年、村に災厄が訪れてしまった。飢饉(ききん)に見舞われ、疫病が流行り出し、大勢の者が死にました。俺達はまだ生きているうちに皆で安全な村まで逃げなさいと、子供達を託されました。逃げました。でも、やっぱり子供達も俺も、結局村に戻ってしまった。彼らを見捨てられませんでした」


 金波が拳を握る。胸の前で握られたそれは小さく震え出した。


「どうにかして村を救う手段は無いかと考え、俺達は山犬のことを思い出した……山犬なら、どうにか出来るのではないかと。山に入って頂上を目指しました。山犬は、いました。酷く疲弊した姿で。村が山犬を崇めなくなった為に力を失い、弱っていたんです。だから俺達は揃って山犬の生贄になることを決めた。元々かなりの霊力があると故郷の呪術師の婆様に言われていましたから、それが山犬の力になり、山犬はその力で村を救ってくれました」

「……その後に、澪に拾われたんだね」


 金波は小さく頷いた。
 まだ子供だった双子を、澪の目が惹きつけ、標の声が黄泉へ誘った。澪はその目で双子の記憶を見、標がそれをもとに話しかける。

 しかし、黄泉に行く道程で、問題が生じた。

 追いかけてきた山犬の思念が止めたのだ。
 呼び戻そうとする山犬は残った己の力全てを使って双子を蘇らせようとしていた。
 結局は力が不足していた為に蘇生は叶わなかったのだが、中途半端に蘇らされかけた双子の魂は乱れ、黄泉が受け入れることを拒んだ。
 澪が己らの守護者にしたのは、それ故である。

 生き返ることは出来ない。だが山犬は彼らを生贄、犠牲として逝かせたくない。
 ならば澪標(みおつくし)の守護者として永遠に側に仕えないかと、澪は双子にも山犬にも温情をかけてくれたのだ。
 金波も銀波もそれを受け入れた。山犬も、それで良いのならと引き下がってくれた。望み通り力が続く限り村を守り続けると約束してくれた。

 そして、時が経ち現世では村は滅び山犬も死んだ。
 山犬は死した後望んで双子のもとを訪れ、融合した。
 その結果が先程の変化なのであった。


「元々山犬は人々の信心あってこそ力を振るえていたんです。俺達も同じで、山犬の力を認識してくれる人間が側に複数いなければ山犬の力は使えない。あなたの目に認識され、かの鏡で不足分を補えなければ、ああ上手くはいかなかった。勿論、これは現世に限った問題であって、俺達の領域である黄泉ではそんな制限は全くありません」


 彼の言葉に、銀波が両手を握ったり開いたりした。兄と同じ真っ赤な瞳がゆらゆらと揺れる。 
 思い出しているのだろう。辛かったけれど守りたい幸せが確かにあった過去のことを。

 和泉は、ゆっくりと深呼吸をした。
 今日は何度深呼吸しただろうか。一人苦笑する。


「……憎んでる? 俺達のこと」


 問うと、金波は「そんなに不安がらなくても」と苦笑を浮かべた。

 不安がってなどいない――――そう否定しようとしたが、実際彼の言う通りだと遅れて気付き、微笑を返した。
 澪だけでなく金波銀波にまで恨まれていたらと、仲間と思っていた彼らに嫌われることに恐怖を抱いていないなんて、そんな筈がない。
 何故なら自分にとって仕事寮は、宝箱のようなものなのだ。
 仕事寮と言う宝箱の中には、仲間、依頼人、都に住まう人々――――宝が沢山たくさん詰まっている。
 それを命を捧げて守るのが、これからの自分の進むべき道。

 その先に一体どれだけの犠牲を作るのか……。
 恨みを積み重ねて守っていく覚悟の、なんと重きこと。
 小さな荷物さえ、この肩から落とすまい。
 死ぬまで押し潰されぬよう、真っ直ぐに進んでいかなければならない。

 けれども――――まつろわぬ民であったとしても、澪達に永遠に憎まれ続けるのは、正直、辛い。

 澪を見下ろす和泉に、金波の声は穏やかに脳へ溶け込んでいった。


「俺達の時代に、あなたは生まれていない。俺達は、その時代に生きていない者にまで恨みを持つ程……葦屋道満のように憎悪が強くありません。それに俺達は仕方がないと思っています。当時、至る所で飢饉が起こっていたと聞きました。国自体に余裕が無かったのだから、取りこぼしがあったのは仕方のないことでしょう。それに俺達の場合、守りたいものは守れました。喪ったものは多かったですが、それでも彼らの未来は守れた」

「悔いは?」

「ある訳ないでしょう。俺も、銀波も」


 そこで彼が見せた笑みは、にっかと晴れやかなものだった。


「澪様も、今を生きるあなた方を憎いとは思っていられません。安らかで楽しい暮らしは、とても人間を恐ろしいとは思えぬ穏やかな幸せでした。嘗(かつ)て得られなかったものを、この時代の人々がくれました。俺達にも、澪にも。《普通》が分からない異物に《普通》を与えてくれたんです。この都が」


 皮肉だと、和泉は思った。
 都に鎮座する帝によって不幸の極みを味わわされた彼らが、都の人々によって普通に暮らせる幸せを得られたなどと。
 和泉は謝罪しようとしたが、源信が先んじて、


「それは、良かった。わたくしも、澪やあなた達の為に、何かしてあげられていたんですね」

「それはもう。特に澪様にとっては初めての人らしい食事をなさったのですから。標様が訊いたら、頬を膨らませて羨ましがられるかと」


 そこで大袈裟な反応を銀波が見せた。肩を大きく跳ね上がらせて焦った顔で金波を睨んだ。


「兄貴、絶対に話すなよそれ。標様、自分も出たいって駄々こね出すから」

「宥めるのはお前の仕事だろう」

「だから言ってんだよ!」


 金波が鼻で笑い、目を伏せる。

 銀波は唇を尖らせて、その場に仰臥(ぎょうが)した。
 それを見た源信が微笑み、


「話はこれで終わりにして、今は澪が目覚めるのを待ちましょうか。金波達も休ませる必要があります」


 彼らの助力無しでは、わたくし達は安倍様のように上手く動けないでしょう。
 源信は言い、金波と銀波の体調の確認し始めた。

 彼らを眺めながら、和泉は大岩の側に残したライコウのことを思う。
 ライコウは、大丈夫だろうか。
 いや、大丈夫に決まっている。怪我をしていようと、自分の身くらいは守れる筈だ。晴明が逃がしてくれている可能性もある。壱号達も、見当たらなかったが自分達が気付かなかっただけであの場にいた筈だ。
 そうだ。晴明達がいるのだから、悪いことにはならない。
 ならばこっちはこっちで出来ることを精一杯やるだけだ。
 和泉は、目を伏せ、奥歯を噛み締める。

 和泉の腕の中で、小舟が澪の腹の辺りに丸まって寝始めた。



.

[ 152/171 ]




栞挟