壱
和泉が何故澪を抱き寄せたのか。
僅か一瞬の後にその意図が分かった。
澪の身体が大きく跳ね上がった途端、和泉の腕の中にすっぽりと収まった身体が光に包まれる。
ひきつった悲鳴が彼女の口から絞り出される。
痙攣し始める身体を和泉はしかし放さなかった。
その光の柔らかさ、安らかさを見た金波は、その光が何たるかを察してひゅっと息を吸った。
間違い無い。
あれは――――!
閃いた。
あれがあるのなら、澪様を元に戻せるかもしれない!
金波は叫ぶように弟を呼んだ。
驚く銀波に目配せし自らは源信のもとへ駆け寄る。
口早に《頼みごと》を言い、相手の了承を得ぬままに銀波に合流、源信へ目配せした。
源信にしてみれば何故《それ》を金波が知っているのか、驚いたに違いない。
だが金波の強引な頼みにも冷静に対応してくれた。
双子が並んだその様を、閉じられた瞼を押し上げ――――《観る》。
次の瞬間驚愕に見開かれた双眼に、金波は確かな手応えを感じた。
成功した。
彼が、自分達の本質を認識してくれた。
これならば!
「ああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁ!!」
とうとう和泉の拘束を抜けた澪がよろめきながら頭を掻き毟(むし)り間合いを取る。眼窩から垂れ下がった眼球が今にも落ちてしまいそうな程大きく揺れる。
力を強制的に与えられたことで、彼女の器の中が乱れている。暫くは自分自身の異変に意識が向けられる。
それを好機として、金波は叫んだ。
「《八咫鏡》の鏡面を俺達に!!」
和泉がぎょっとするも、逡巡は一瞬。すぐに懐から姿を覗かせていた八咫鏡を双子へと向けた。
そこに至って銀波もようやっと兄の意図が分かったようである。不安と期待の入り交じる眼差しを向けた。
金波は確信を持って力強く頷いて見せた。
八咫鏡が何故和泉の懐には入っているのかは分からない。だが今はそんなことどうでも良い。八咫鏡が和泉の手の中に在る、その事実だけがあれば。
鏡から再び光が溢れる。
双子は同時に目を伏せ力を与える光を受け入れた。
本質を認識した人間がいる。
力を補充する鏡がある。
森には清らかな空気に紛れ味方が多く存在する。
ここに、自分達揃っている。
……いける!
金波は腹に力を込め銀波の腕を掴んだ。
光が、膨張する。
‡‡‡
目を焼く光を避け、キツく瞼を閉じる。
収まった頃合いを見計らって瞼を上げると、そこに双子の姿は無かった。
代わりに、大きくて真っ白な山犬が一匹。赤い目を和泉に向け、座っている。
ただの山犬でないことは、その体躯の大きさだけでなく、身にまとう澄み切った神々しさからも明らかである。
「……君達も、変身しちゃったんだ」
グルルルル……。
その唸りは、肯定だろうか。
和泉は笑みをひきつらせ、鏡を見下ろした。
いつの間にか、懐にあった八咫鏡。
気付いたのはつい先程、金波に庇われた直後のことであった。
無論、拾った覚えなど全く無い。大石の間の何処にあったかも分かっていなかったのに、どうしてか、鏡だけがあたかも最初から所持していたかのように懐に入っていたのだった。
一体、誰が葦屋道満や和泉の注意を免(まぬか)れて懐に入れたのか。
晴明? いいや、満身創痍の彼にそんな余裕があった筈がない。
参号やライコウなど以ての外だ。和泉に悟られずに懐に入れる必要が無いではないか。
澪も、それが出来る状態であったか疑わしい。
金波銀波も、恐らくは違う。であればもっと早くに鏡の力を欲した筈。
……いや、今はそんなことはどうでも良いか。
誰が忍ばせたにしろ、八咫鏡のお陰で少しは状況が変わったように思う。
咄嗟に、鏡の力を使えばと駄目でもともと澪を抱き締めて八咫鏡を極限に近付けてみたが、果たして多少の効果はあった。
澪の姿が、ましになっているのだ。
骨が見えるまでに削げていた頬の肉は盛り上がり骨が隠れ、側頭部の凹みも半分程戻っている。眼球も先程と比べて眼窩に近く上がっている。足の捻れ具合も、襟から飛び出した肉塊も。身体全体が、元の状態に少しだけ戻っているのだ。
鏡が彼女に力を与えれば、もしかすると理性の片鱗くらいは引きずり出せるのでは――――小さな希望が鼓動を速める。
和泉の中に芽生えた希望を膨らませるように、双子が変じた神々しい山犬はあぎとを大きく開き太く咆哮する。
空気だけでなく乱立する木々の太い幹すらも振動させ、彼らにも低い音を奏でさせた。それが喊声(かんせい)のように思えたのは、自分だけだろうか。
澪は雄々しい咆哮になど意識を傾けていない。尚も鏡から受けた光から与えられた力に苦しみ悶えている。
彼女の中で何が起こっているのかなど分からない。
ただただ、それが良い方向へ向かう異常であることを願うばかりである。
山犬はゆっくりと澪へ歩み寄る。
俯いた頭へ鼻を押しつけ、顔を上げさせた。
赤い双眸が濡れた光を優しさで満たし、目線を主に合わせた。
澪は髪に指を差し込んだまま無言で山犬を見返した。
山犬が誰か分かっていない訳ではなさそうだ。ただただ凝視し、じっと動かない。
ざわざわと梢(こずえ)囁きが降ってくる。
その中に、鳥や虫の鳴き声も混ざっている。
和泉は目を開いた源信を振り返り、静観を示し合わせた。
源信の腕の中で小舟は大人しくしている。山犬と澪を見つめている。
見つめ合ううち、澪の身体から要らぬ力が抜けていった。
表情も和らぎ始め、何かに促されるように深呼吸をし始めた。
山犬が澪の周りを回り始めて、彼女の小さな身体に何度も鼻を押しつける。
彼の道筋が光の線を生み澪を取り囲む。
陣となった足跡は次第に光を強めていく。
澪が陣に気付いた時には彼女の身体も発光し始め、背中から黒いモノがやおら滲み出てきた。
道満が無理矢理に吸収させたモノだ。
押し出されるそれは陣の光を受け苦しげに悶える。
ぼとりと地面に落ちたモノは光に焼かれてびたびたと地面を叩く。
山犬はそれを踏みつけ澪の服を噛んで持ち上げその場から離れた。
澪はなすがままだ。
地面に下ろされても茫然自失と座り込み、虚ろな眼差しを虚空へ向ける。
和泉はそっと歩み寄り、側に腰を下ろした。
「澪」
「……」
首がぎぎぎ、とゆっくりと動き、和泉を向く。だがやはり彼女の焦点は定まっていない。
だが、見た目がまたましになっているのではないか、と頬に手を当てた。彼女の頬はとても柔らかく、温かい。
和泉は八咫鏡を澪の手に持たせた。
「これを持っていて」
「……」
澪の手が、傷一つ無い鏡面を撫でる。
するとまた、鏡から光が溢れたのだ。
腕を伝い全身に広がっていく光は、和泉の目の前で、澪の身体を癒し始めた。
歪(いびつ)で重い音を立て骨格も削がれた肉も捻じ曲がった足も元に戻っていく。
眼球も吸い込まれぴったりとはまる。瞼を閉じ瞬きを繰り返した。
うっすらと口を開け、掠れた声を漏らす。
「……お、にい、さま……」
「お兄様?」
ハルお兄様。
求めるように言い、澪は前のめりに倒れた。
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