「澪様!!」


 襲いかかる澪に対し、和泉を守るように間に飛び込んだのは、金波である。弓で澪の側頭部を殴りつけ和泉から間合いを開ける。

 遅れて銀波が苦渋の面持ちで澪に大剣を振るって切りかかった。

 澪は軽々とこれを避けた。
 驚いたように二人を見、口を戦慄(わなな)かせる。


「どうして……味方だったのに……味方じゃないの?」


 金波と銀波が裏切ったと思い込んだ彼女は傷ついた顔で二人を見る。


「金波……」

「あの状態の澪様に近付いてはいけない。噛みつかれたらそのまま喰われるだけですよ」


 今の澪は安定していない。
 また彼女と融合した魂が出てくる可能性もあるが、今は鬼になりかけの澪が表に出ている以上、不用心に人間を近付けてはならない。
 金波は、振るった弓を下げ、大事な主に穏やかな声音を浴びせた。


「澪様。俺達双子は、いつでも、澪様と標様、そして小舟の味方ですよ」

「じゃあ、食べさせて。お腹が空いたの。苦しいの」

「それは出来ません」


 金波の声は、まるで聞き分けの悪い子供を優しく諭すかのよう。
 彼は、知っている。
 恩義あるこの少女が抱える飢えに、果てが、終わりが――――救いが無いと。
 ただ、我に返った時に怒濤のように後悔と罪悪感が押し寄せ苦しむだけだ。
 我慢するのもさぞ辛かろう。
 されども飢えに負けて大事なものを喪うよりは、ずっと良い。

 彼は――――彼らは死ぬ前から自分たちの大事なものを《護る》為に存在していたのだ。
 大事な澪や標、小舟を守る為に、最善を尽くす。


「昔のように人間を食べてしまえば、後になって澪様が深く傷つかれると分かっていますから」


 金波は銀波を肩越しに振り返り、片手を挙げた。

 銀波が肩を小さく震わし、源信と和泉を見やる。警戒の色をうっすらと滲ませてこちらの様子を窺っている。
 彼が何を思って何を警戒しているのか、二人には分かるまい。

 金波は弟を呼び、弓を放り捨てた。
 澪に一礼して、ゆっくりと歩み寄る。

 澪は金波を見、悲しげに目を伏せた。胸の前で両手を組み、うぅ……と小さく唸った。金波が身を低くすると一歩後ろに退がり、ぐんと前のめりに飛び出した。
 裏切り者と判定した金波に襲いかかり、右腕を振るう。元々身体能力の高かった彼女、鬼になりかけている今はまた格段に膂力(りょりょく)が増している。
 紙一重で避けても豪風が容赦無く身体を殴った。踏ん張らなければ後ろにふらついていまいそうになる。
 この攻撃はまだ脅迫の意味だ。守護者として側に仕えてきた金波を本気で排除する気はまだ無い。
 それでも、加減されていてこれなのだ。焦燥感から金波達への配慮が無くなってしまえば、獲物の姿に拘(こだわ)らなくなれば――――金波の身体も和泉の身体も、一瞬で形を失うだろう。
 今のうちに澪を宥めて道満が彼女の身体に取り込ませた黄泉のモノを引きずり出さなければならない。

 さりとて彼女が今飢えと憎悪で頭が一杯で、正常な思考でないことに変わりは無い。今でも十分接し方に注意すべき状態、まだまだ楽観視が出来ない状況なのである。

 危険極まるが、小舟と標と融合していれば、まだ手はあった。
 金波にはどうやって黄泉のモノを、大陸の仙人が作った器から出せば良いか、良い案が浮かばない。金波は仙人が作った器について何一つ把握していない。何処をいじってはいけないのか分からなかった。

 だからこそ、今のうちに澪の理性を呼び戻す。
 鬼になりかけている今が彼女の理性を呼び戻す好機だ。間に別人格が恨みを吐き出し始めれば、一からやり直しになるやもしれぬ。


「澪様。標様も小舟も、我慢がとても得意だったでしょう。それは二人よりもずっと我慢強いあなた様がお教えになったからですよ。そんなあなたが、いつまでも腹が空いたと駄々をこねられますな。標様は、今も澪様に会いたい気持ちを我慢しておられる筈ですよ」

「しる、べ……」


 顔を上げた主の双眸に宿る感情を見た。
 微かだ。本当に微かだが、手応えがあった。


「そうです。あの方はとても寂しがり屋でいらっしゃいますからね。澪様の気配が無いだけで、いつ泣き出してしまわれるか……泣きやませることが出来るのは、澪様だけなのですよ? いつまでも菊花殿に標様の宥め役をお任せする訳にもいきますまい」


 澪は生前、生まれながら聡く、精神的にも強かな娘であった。
 心の発達が遅かった双子の妹を守るべくしてそう生まれたように、彼女は教えられるでもなく、隔絶された密室の外から漏れ聞こえる他人の言葉の一つ一つの意味を解し、知恵を吸収し、自らの声に乗せて発することを覚えた。
 そう、密かに《教えられた》。

 自分達の魂が澪に拾われた時、教えてくれた人物は彼女らを託してくれた。あまり自由に動けぬ己を恥じながら、頼むと頭を下げてくれた。
 澪を戻さなければ。

 ここに道満はいない。
 道満がいなければ、自分達はまだ自由が利く。
 道満がいなければ、邪魔をする者は誰もいない。
 道満がいなければ――――情け無い話だが、彼の存在は、力は、金波銀波にとっても、警戒すべき脅威だった。

 自分達の力が、葦屋道満に劣らなければ、もっと上手く立ち回れた筈だったが、こればかりは仕方がない。
 こっちは、《俄(にわか)》だ。
 執念で力を手に入れ、宿願を果たす為だけに何百年も生き続けた彼とは違う。
 澪以上に歯が立たないのは、当たり前だ。
 悔しいが、変えようの無い事実。

 だから和泉がここまで逃げてくれたのは好都合だった。
 ここでは金波達に味方する者が多い。

 金波は、優しく言葉をかけ続ける。
 銀波は澪の動向を警戒しつつ黙って事の成り行きを見守っている。言葉では自分よりも兄の方が上手いと分かっているからこそ、澪が襲いかかってきた時兄を守れるようにと身構えている。


「あ……あぁ……嘘。どうして……邪魔をしないで。お腹が空いたの。あの時よりも、ずっと、ずっと……お腹が空いて気が狂いそうなの!!」

「そうでしょう。あの男があなたにあなたの身体に不適合な存在を入れてしまいました。その苦しみは、それ故に強いのでしょう。ですが、負けてはなりません。澪様がその狂おしい誘惑に負けて、この場にいる人間達を喰らえば……もっともっと、苦しいですよ」


 澪は頭を抱え、ふらりとよろめいた。
 「澪」源信が小さく彼女を呼ぶ。

 刹那、澪が呻いた。首を左右に振る。ばさばさと黒髪が暴れた。


「止めて……止めて……ろ……止めろ……止めろ……! お腹が空いてるの、お腹が空いたの! 食べたいの!! 私達は悪くないのに、お腹が空いてたまらない! どうして私達がこんなに苦しいの!?」

「澪様……」

「それは、俺達の所為だよ」


 口を挟んだのは和泉だ。
 金波が彼を振り返ると、微笑んで頷いた。
 何をするつもりなのかと思えば彼は小舟を源信に近付いて手渡し、あろうことか澪に向かって歩き始めた。


「宮様。何を……」

「大丈夫」


 和泉は、軽快な言葉で返した。

 銀波が血相を変えて前に立つが、和泉は微笑みを浮かべたまま彼を横にどけて苦しげに仰ぐ澪に歩み寄った。
 金波が呼ぶが、彼は片手を挙げるだけで止まろうとしない。


「君達を悲劇に追いやったのは俺達の一族だ」

「お腹が、空いた……お腹が空いた……苦しい……」

「うん」

「どうして私達がこんなにお腹が空かないといけないの……どうして美味しくない人間の肉を食べないといけないの……」

「うん」

「お腹空いた……お腹空いた……お腹空いた……」

「うん」

「あなたの所為で……あなたの所為で……、……あなたの、所為、で……」

「うん」


 和泉は澪の前に立ち、


 澪を抱き寄せた。



●○●

 次は、金波銀波について触れます。


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