和泉は足を止めた。
 十分だろうと、開けた場所にて身を翻す。
 瞬間、澪が飛びかかってきた。

 紙一重で何とか回避し、距離を取る。
 獣のように唸り、四つん這いになって和泉を睨め上げる。見てくれは依然酷いままだ。今更ながら、あまり激しく動くと眼窩(がんか)からこぼれた目玉が落ちてしまうのではないかと不安を抱く。


「宮様!」

「澪様にそれ以上近付いてはいけない!!」


 源信達の声に澪が反応する。
 だが彼らには襲いかかる気配が無い。今はただ、小舟を和泉から取り返したい一心のようだ。

 澪には和泉が判別出来ていない。
 源信も金波銀波も、彼女にとっては餌でしかないのだ。
 食べたくないのに食べたいと渇望する餌でしか。

 食べられるつもりはない。
 それが彼らに対する償いになるとしても、都を守ると決めた自分を裏切ることになる。端からそんな選択肢は彼の中に無かった。
 ではどうするのか。
 まだ分からない。晴明ですらどうにも出来ないことを、自分に出来るかも怪しいところだ。

 犠牲者にどう向き合うのかもろくに考えていなかった。

 今から考えながら……という訳にもいかぬ。
 和泉は数度ゆっくりと呼吸した後に、彼女に声をかけた。


「……まつろわぬ民よ。予は皇位を継承する者。そなたらの尊い日常を踏みにじり、国を導く者である」

「……」


 びくり、と澪の身体が震える。「……こうい……まつろわぬたみ……すめらぎ……みいつ……」舌足らずに呟く。
 ゆらりと華奢な身体が揺らめいた。


「そうだ……そうだ……そうよ……そうよ……そうだよ……」

「……」

「……そう……すめらぎはそんなにえらいのか……わたしたちのしあわせをかえせ……わたしたちのせかいをこわせるにんげんなのか……わたしたちはただへいおんに……いつものように……わらって……おこって……ないて……しぬまでこきょうで……あたりまえにくらしていきたかっただけなのに……!!」


 おまえらはわたしたちのしあわせをこわした!!
 澪の涙混じりの怒号が沈黙する森の大気を震わせる。
 彼女の言葉ではない。彼女と混じり合った幾つもの魂の叫びだ。


「かえせ! かえせかえせかえしてかえして! わたしはようやっとこどもができたのに! ボクはあしたおとうさんとはじめてかりにつれていってもらえるはずだったのに! おれはむすこがよめをもらってしゅうげんをあげるはずだったのに! あたしはおばあちゃんといっしょにおじいちゃんとのおもいでのばしょへいくやくそくをしていたのに! すべてすべてすべてすべて!! おまえたちはこわした! くだらない! くだらない! くだらないことのために!! どうしてわたしたちはわたしたちのだいじなものをしんじてはいけない!! むかしからすっとつづいてきたことだ! せんぞがだいじにしてきたものをどうしてまもってはならない!? どうしてそれがつみになる!? すめらぎのためにせんぞのおもいをころせというのか!? ふざけるなふざけるなふざけるな!! みやこ!? しるか! そんなものがわたしたちになにをしてくれる!? かんばつをどうにかしてくれるのか!? ふさくをどうにかしてくれるのか!? うえたらほどこしをくれるのか!? えきびょうをなおしてくれるのか!? じぶんをしんじるたみすらすくうきがないくせに、ただただあがめろなどとごうまんなことをおまえたちはいうのか!! そんなものをしんじられるわけがあるか!?」


 声が拙(つたな)いのは、彼女の中で色々な感情がせめぎ合いなかなか定まらないからか。
 聞き取りにくい箇所はあるものの、その全ては憎悪でどろどろで、悲痛で冷え切っていた。
 言葉で激情をぶつけられ、鼓膜から脳へ毒のように回っていく。じくりじくりと胸が疼き、痛み、締め付けられ呼吸がままならない。
 和泉は静かに濃密な憎悪に塗り固められた言葉を受け止めた。

 ふと大人しくなった小舟を見下ろすと、声も無く――――いや、恐らく彼に声は無いのだろう――――静かに泣いている。


「おまえたちはおれのむらにえきびょうでしんだたみのしたいをすてた! どうなったとおもう!? えきびょうでむらびとのほとんどがしんだ! そのあとおまえらはおれのむらをやきやがった!! おまえたちにしたがいあがめていたはずのたみのしたいをほうりすて、えきびょうをひろめたくせに、おれのむらがえきびょうのはっせいげんだといいやがった! おれのむらじゃない! みいつにしたがったむらからはじまったえきびょうをりようしておれたちをほろぼしやがったんだ!! おまえのせいだ! おまえのせいだ!」

「……」

「どうしてあたしたちはいきてはいけないの!? どうしてつまはじきにされるの!? おばあちゃんはあんなにもたのしみにしていたのよ!? ずっと、ずっと、しぬまえにいちどだけおじいちゃんがめおとになろうといってくれたあのおかにいきたいっていってて、あたしがようやっとかなえてあげられるはずだったのよ!? それを! それをあのおかまでおいかけてきてころしたのよ!! おもいでのばしょだったの! おばあちゃんはあんなによろこんでいたの! いっしょうけんめいあるいて、なんどもなんどもきゅうけいして、なんにちもかけていったのに! あたしもおばあちゃんもころされるためにいったんじゃない!!」

「……」


 色んな人間が、澪の身体を借りて恨みを吐き出す。
 和泉は沈黙して聞き続けた。聞きにくい言葉も、一つたりとも聞き漏らさぬように、意識を一心に彼らに向けた。

 そのうち、はっとする言葉が出る。


「おまえのせいだ……おまえのせいだ! おまえたちにむらをこわされてこどもとにげまわった! やっとそのことくらせるむらをみつけたのに! そのこはころされた! あたしもころされた! おににされた! あいつらがあがめるおににされた!! さいしょから、あがめていたおになんていないとわかってつくろうとしたのよ! よそもののあたしたちで! やさしくやさしくつかれをいやしなさいとうそをついて!! おまえたちがむらをこわされなければこんなことにはならなかった!! なぜこわした! なぜあたしたちのくらしをひていした!! おまえはそんなにえらいにんげんなの!? そんなによくできたにんげんなの!?」

「……」


 澪の中に、小舟の母親もいる。
 小舟を見下ろすとに彼は澪に手を伸ばそうとして、止める。
 小舟の母親が出てきたのを皮切りに、以降は恐らくは澪の村で《鬼様》の生け贄にされた人々の恨みが続く。
 それらもそもそもは皇に従わないから、鬼へ多くの生け贄を捧げなければならぬ事態へと追い込まれることとなってしまった。

 自分達は先祖から受け継ぎ守ってきたものを守らねばと思っていただけ。
 それを頭ごなしに否定され、罪にされた。
 あの土蜘蛛達も同じだ。

 彼らの全て、それが始まりなのだ。

 自らが忘れてはならない影の部分を、目の当たりにしている。
 目を背けたい、耳を塞ぎたい。
 けれども、それは赦されない。
 三種の神器を継いで繋いできた皇族の為にやったことなのだ。

 光が在れば必ず影は生まれるもの。
 光が強ければ強い程、影も濃くなっていくもの。
 背中合わせの関係の双子のようなもの。

 光が決して忘れてはならない存在。

 和泉は静かに促した。
 先程の厳かな言葉ではない。
 自然な、和泉としての言葉がすらすらと流れ出た。


「……まだ言葉は出尽くしていないだろう。俺は逃げない。ここに立ち、耳を傾け続けるよ。俺に向けたい思いがあるならば今全て出し尽くして欲しい。俺は今まで事実だけを知っていただけで、君達が何を思って生き、何を思って死んでいったかを知ろうともせずに生きてきた。だから、教えて欲しい。俺は君達のその憎しみに溢れた言葉を死ぬまで、覚えておきたいんだ」


 その言葉に、澪の様子が少しだけ落ち着いた。一旦、激情の吐露も静まった。


「いまさら、だ。いまさらわたしたちのすべてをしってなにになるというのか」

「ああ。今更だ。今更聞いたって俺には何も出来ない。命を差し出すことも、別の形で償うことも。俺の身はもう俺一人のものではないから、俺自身のことですら俺が決める訳にはいかないんだ。それが皇というものだから。でも、君達の怨嗟の声をずっと俺の中に中に残すことは出来る。殺されるのは困るけど、ずっと俺を責めるだけにしてくれるなら俺に憑いても良いよ」

「……」


 澪を舌打ちする。


「ひとりをころしたとて、つぎがつくだろう。おまえひとりころしてもあたしもわたしもおれもぼくもこころがいやされることはない。わたしたちのようなぎせいしゃがたえることなくあらわれる」

「だよねえ……うん。ごめん。俺って結構頭が悪かったみたいでさ。君達と向き合わないといけないって分かっていても、君達も、君達が借りている身体の持ち主の女の子も、今俺の腕の中にいる赤ちゃんも含めた、皇の威光を守る為だけに殺された人達を救う方法が見つからないし、その資格が俺にあるのかどうかも分からない状態なんだ。勿論、君達を救えたとして先祖が重ねてきたことを帳消しに出来る訳がないし、これからも失われるだろうまつろわぬ民と蔑まれる人々の命を救える訳でもない。光がある限り影は生まれる。今俺が生きているその裏側に、目を背きたいことがある。俺に出来ることと言えば、その全てから目を逸らさず胸に受け止めるだけだ。冥福を祈っても憎悪を煽るだろう。来世の幸福を願っても怒りを買うだろう」


 結局、和泉が何をしたとて、彼らには偽善にしかとれまい。
 であれば何をすれば良いのか分からなくなってしまうのだった。

 澪は和泉をじっと見つめ、ふと俯いた。


「澪……?」

「……それより、も――――私には、そんなことはどうでも良いの」


 声音が変わった。
 和泉ははっと身を引いた。

 お腹が空いて仕方がないの。
 食べたくないのに食べたくて食べたくて、苦しいの。


「……戻っちゃったね、澪」


 小舟を抱き直し、和泉は溜息を漏らした。

 澪はふらりとよろめいて、跳躍する――――。



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