長年の頼もしい友人が膝をつく様は、酷く緩慢だった。
 和泉は目を剥くことも忘れてその姿を茫然自失と見つめていた。

 長身で首の太い、その達を振るうに十分な膂力(りょりょく)を持った友人は、小柄で華奢な少女に脇腹を噛みつかれて骨を臓物を深く傷つけられ、身体を曲げる。
 澪は、そんなにも口が大きかっただろうか。

 腹を庇ってライコウは唖然とした顔を澪に向ける。

 澪はごくりと、血肉を嚥下した。


「……美味しく、ない」

「澪」

「美味しくない……美味しくない……美味しくない……美味しくない……不味い、不味い、不味い不味い不味い不味い肉不味い肉不味い肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉は嫌だもう肉は嫌だもう肉は嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌なのに食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたいお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたあアアぁァぁぁァァァあ゛あガゥぅァァあア゛ぁァぁっ!!」


 頭を抱え激しく振るう。
 狂ったように甲高い声で叫ぶ言葉は誰のものなのだろう。澪だけのものではないことだけは確かだ。
 ……もしかすると、全てが合わさった言葉なのやも知れぬ。

 和泉は荒れ狂う人の姿を失った少女を見つめ、掠れた声でその名を呼んだ。その小さな身体に触れることも、近付くことも出来やしない。どうすることも、出来ぬ。

 和泉の声に反応したのか。
 澪は言葉を止め、だらりと腕を落とした。

 ライコウも澪の名前を呼んだ。

 澪は周囲を見渡し、銀波を見た。
 両手を彼に向かって伸ばす。


「か、え、して……」

「……っ」


 銀波がはっと小舟を抱き締めて後退する。
 かえして――――返して。
 澪が見たのは銀波ではなく小舟だった。

 それを悟った銀波は双子の兄に目配せして澪から離れようとした。

 されども――――。


「返して……返して、《あたし》の赤ちゃん……あたしの赤ちゃん返して、返し、て……あたしの赤ちゃん、赤ちゃん……か、かぁ……かえぇぇぜぇぇえ゛ぇっ!!」


 澪ではない誰かが、澪の声を借りて、銀波を怒鳴りつけた。
 銀波が萎縮し動きを止める。

 源信が怒鳴りつけるも、小舟が腕をぱしぱしと叩くも、鼻白んだ彼は動かない。

 澪は返せと怒鳴りながら近付いていく。
 このままでは小舟が――――。
 和泉は呻き、駆け出した。

 銀波を呼び、小舟を彼の硬直した腕から奪い取る。


「宮!!」

「あ……あたしの、赤ちゃん……っ赤ちゃん、赤ちゃん!!」

「澪、こっちにおいで」


 和泉は晴明に目配せし、澪に笑いかけた。小舟が良く見えるように抱えて、誘った。

 澪の身体を借りた澪ならざる者は、小舟を凝視し、「あぁぁ……」縋るように呻く。
 悲しげに求める彼女は、きっと――――。


「晴明、道満のことは任せて良いよね?」

「……良いのか?」

「ああ。澪の後ろにいる憎念を、俺が受け止めない訳にはいかないからね。それに、二人を同じ場所に置いたまま解決させるなんて無理だろう? 晴明にはまたかなりの負担をかけてしまうけど――――っと!」


 澪が抱きつくように迫ったのを間一髪後ろに跳躍して避けた。ぎろり、睨まれる。
 恐ろしい見てくれの澪を見ていると、胸が苦しい。澪と融合した者達も含めて哀れだと思う。
 だが、これは自分達の血が背負うべき業であるのだ。
 覚悟を決めたのなら、彼女達の重すぎる憎悪を今ここで受け止めねばならない。それも出来ずに都を救おうなどと、厚かましいにも程があろうものだ。


「宮! 拙者も共に、」

「その身体では無理だろう、ライコウ」


 それに血の臭いを濃厚に漂わせるライコウだ、彼が逃げて飢えた澪が追わない筈がない。
 和泉も傷が無いとは言えぬが、ライコウのような状態ではない。澪の身体能力に勝るとは思っていないが、この場から離れるくらいのことは出来るだろう。……いや、そうでなければならぬのだ。

 少しでも遠くへ。
 でなければ――――澪に道満の命令が届く範囲に留まっていれば、晴明達が満足に戦えぬ。


「澪、こっちだ」


 和泉は微笑み、誘った。
 身体を反転させて駆け出す。

 一度だけ肩越しに振り返れば、澪はしっかりと和泉を追いかけてきている。
 その後ろから金波銀波、源信が距離を取って付いてきていた。
 大丈夫なのに――――とは、言えなかった。

 澪の身体能力には何度も驚かされている。
 その限りでないことも分かっている。
 追い付かれればその瞬間、己の命は無い――――そう肝に銘じておかねば、今の彼女に希望などありはしないと認めていなければ、到底逃げきれる者ではないのだ。

 以降、和泉は己に振り返ることを禁じた。
 振り返る間にも速度は下がる。最悪足を取られて体勢を崩してしまう。
 そうなれば――――。

 ちょっと、格好悪いかなぁ。

 だから逃げなければ。
 逃げて逃げて逃げ続けて。
 そして、先祖代々積み重ねてきた罪と向き合わなければならない。
 それで澪は助けられるか? 分からない。
 己にそんな力があるとは、思えない。この生きるか死ぬか、都が滅びるか否かの瀬戸際で、そんな甘ったるい考えを持ってはいけない。

 冷静に状況を見て、その都度その都度的確な判断をしていかなければ!

 和泉は奥歯を噛み締めた。
 必死に足を動かす。
 気配は感じる。澪の背負う強い強い、澱んだ思念が背後で渦巻いているのを背中で感じる。

 小舟は変わらず怯えており、激しい震えが腕に伝わる。
 大丈夫。お前だけは守り抜くから。
 その意味を込めて頭を撫でてやった。



 返して

 死んで

 消えて

 助けて

 消して

 殺して

 返して

 返して

 返して

 あたしの赤ちゃんを返して

 私の家族を返して

 ぼくをおうちにかえして

 俺の娘を返して

 あたしの

 私の

 ぼくの

 俺の――――!!



 そんな声が、《感じられる》。
 皇族に憎悪を向ける者、誰かに救いを乞う者、失ったものを求める者。
 悲しい悲しい声ばかりだ。

 助けてやりたいと思うのは、自分勝手だろうか。

 洞窟を抜け、必死に暗い夜道を走り抜ける。
 何処で入り込んだのか。

 気付けば彼は森の中を走っている。

 清廉な大気は……糺(ただす)の森か。
 いつの間に、ここまで至ったのか。

 《糺す》とは罪過の有無を追求する意味を持つ。
 この森は、皇族の罪を追求してくれるだろうか。
 罪を詮議して、何の罪も無くまつろわぬただそれだけで厳しく排他された者達を救ってくれないだろうか。

 ……いや、詮無いことである。
 今は考え事をしてなどいられない。
 振り返らずとも分かる。
 澪がすぐそこにまで迫っている。

 何か起これば源信や金波銀波が澪を止めてくれるかも知れない。
 だがそれも何処まで有効か分からぬ。

 まだだ。
 まだ離れなければならぬ。

 晴明達の妨げとならぬよう――――。



――――遠くで、烏の鳴き声が聞こえたように思う。



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