※注意



 澪の憎悪は、彼女個人のものではない。
 彼女の後ろには色んな嘆きが、憎しみが、訴えが、揺らめいている――――和泉には、そんな風に見て取れた。
 彼らもきっと、強い憎悪を抱いているのだろう。

 もしかすると、今の澪の姿は彼女だけのものではないのかもしれない。彼らが受けた傷が、澪の身体に現れているのだとしたら。
 大勢の感情が渦巻いている澪の苦痛は計り知れない。

 助けたいと強く思うのは、和泉自身だ。そこに天照皇としてなどという責任感、使命感は無い。
 ただただ純粋に、澪を苦痛から解放してやりたいのだ。他に何の理由も無い。

 銀波の腕の中で小舟がびくびくと震えている。澪の異変を誰よりも敏感に感じ取っている。
 小舟の身体は澪の本体。恐らくこれはそれ故のことだろう。


「晴明。道満は澪の身体に、」

「黄泉の《穢(けが)れ》を無理矢理吸収させたのだ。……澪が完全に鬼となるには、小舟が長年蓄積した膨大な穢れと、澪の本体、更に澪の妹が必要になる。鬼となった小舟の穢れの代わりとは言ったが、あれは剰りにぞんざい過ぎるものだ。加えて変化も不完全故にあれの状態は非常に不安定。適応しない穢れを身に入れたまま暴走を続けていれば、いつか澪の今の身体どころか澪自身の自我も崩壊する可能性がある」


 澪の様子を無表情に観察する道満、黄泉の王を睨み、晴明は苦々しく説明する。


「そんな……! 晴明様、どうにかならないんですか!」

「簡単にどうにか出来るのであればとっくにやっている。今の澪は……私には手に余る」


 あの安倍晴明が、心底悔しげにそう言った。
 分かっていたからそれ程衝撃的ではなかったが、それでも湧き出る絶望が身体から体温を奪っていく。

 稀代の陰陽師にどうにか出来ぬ存在を、和泉達が救える筈がない。
 澪の側近である金波銀波も、得物を手にしながらも身動き出来ていないと言うのに。
 和泉は歯噛みした。

 道満は、こちらが手出し出来ぬ――――すなわち己を阻まぬと判断したようだ。
 黄泉の扉を振り返り、何か呟いた。忌まわしい歌に掻き消され、内容は分からない。 

 けれども呪であることは間違い無い。
 その証拠に扉の向こうの闇が惹き付けられるように、溢れ出し、まるで道満へこうべを垂れるかのように前に傾いだ。


「そうだ。来い……せめて――――せめて……!」


 道満は両手を、徐(おもむろ)に広げた。


「都だけでも、滅ぼしてくれようぞ……!」


 すると、闇が不定形の身体に無数の光を灯し道満の身体に絡みつく。
 闇は自ら黒い右腕に絡みついた。
 触れた瞬間から彼の右腕は闇を吸収し始める。

 澪を包むようにして吸収されたモノとは違い、道満は闇を、闇に潜む無数の思念の塊を呑んでいく。

 大気が震える。
 空気が悲鳴を上げているようで、歓喜しているようで。
 黄泉の住人の声なのか、道満の声なのか。
 和泉には判別が付かなかった。

 あのまま闇を喰らって、彼自身は無事で済むのか?
 闇に何が潜んでいるのか分からないが、良いものでないのは確かだ。
 仮に身体は無事だとしても、自我は 道満は道満のままでいられるのか?

 ……いや、彼にとってはもう、自分自身はどうでも良いのだろう。
 都を滅ぼせるのなら。
 それ程の強く暗い思いが、彼の中に秘められているのだ。

 黄泉の王は、沈黙してそれを見下ろしているのみである。
 何故止めぬのか――――あたかも、彼もまた道満の指示を待っているかのようではないか。
 よもや黄泉の王まで、生者の敵になっていると?


「ちっ!」


 晴明の舌打ちが聞こえたかと思えば、彼の式札が、道満めがけて猛進する。

 けれど――――。


「幻雷蝶!」

「! 駄目だ晴明!!」


 視界で動いた者にいち早く気付いた和泉は叫んだ。

 式札が黄色の蝶へと変じた直後、道満に至る前に幻雷蝶へ突っ込んだ者がいる。


「澪様!!」


 金波が叫んだ。

 幻雷蝶は道満ではなく澪の小柄な身体に全て張り付き、雷撃で焼いた。
 人のものとは思えぬ断末魔が上がり、澪の身体がどうと倒れた。

 道満は、尚も闇を喰い続ける。
 闇を呑み続ける右腕の血管が破裂し、皮膚が裂けて血が飛び散っても構わなかった。

 晴明は次の攻撃をしようとし、必死の形相の金波と銀波に前を塞がれた。晴明自身も躊躇っている。
 澪がゆらりと立ち上がったのだ。
 もう一度攻撃を加えたとして、彼女がまた庇わぬ保証は無い。そして庇って、惨たらしい身体が無事で済むのかも……。

 こちらの心を容赦無く攻める、卑怯な手だ。
 澪を盾にすることでこちらの攻撃を阻んでいる。

 彼女が道満を庇う限り、仕事寮は動けぬ。


「……最早、止められぬのか」


 悔しげに晴明は呻く。

 そうしている間にも道満は闇を喰らう。

 喰らい、

 喰らい、

 喰らい――――。


 歌が、止まった。


 その闇の中に、歌い手全員がいたのだろう。
 彼らも道満の右腕に呑まれ、その力と変わった。
 だが澪に変化は見られない。歌が聞こえなくなったとは言え、道満にかけられた術は解けないままなのだ。

 道満も止めなくてはならぬ。
 澪も助けてやりたい。

 気持ちはある。
 それだけでは何も出来ぬ。
 気持ちの強さに比例して焦りが増していくだけだ。

 手を拱(こまね)いている和泉達の前で、澪に守られながら道満の暴食は止まらない。
 すでに限界を超えている右腕は、彼の憎悪の深さを物語るように、果て無く貪欲であった。
 苦痛を感じていない訳ではない。現に彼の顔には玉のような汗が浮いて流れ落ちていく。先程と比べて赤い目も定まっていない。
 葦屋道満の理性が、吸収した闇によって着実に擦り切れていく。


「そんなにも苦しんでまで、あなたは都を……」


 源信の呟きが聞こえた。
 憐れんでいるとも恐れているとも取れる、震えた声だった。

 そんなにも苦しんでまで、都を滅ぼそうとする。
 反魂の相を長年待ち続けた彼の恨みを生んだのは、己の先祖だろうか。
 大勢の犠牲の上に都は、皇(すめらぎ)は存在し、その存在の威光を守る為に犠牲は増えていく。

 被害者にとっては、都はさぞ憎らしい場所だろう。皇はさぞ憎らしい存在だろう。
 こんなちっぽけなものの為に人生を狂わされたのかと――――道満の喰らう闇には、彼らの憤懣(ふんまん)、憎悪も多分に含まれているに違い無い。
 道満も、沙汰衆も、それぞれが皇の正当性の為に犠牲になった無数の被害者の一人なのかもしれない。

 自分には、犠牲の上に君臨する者として、嘘偽りを持たず真摯に向き合う義務がある。
 そう……俺は天照皇なのだから。
 和泉は目を伏せ、深呼吸をした。

 この状況下、自分達で出来ることは――――。
 思案を急速に巡らせた、まさにその時である。


「宮!!」


 ライコウががなるように主を呼び、渾身の力で突き飛ばした。

 地面に転がった和泉の回転する視界が捉えたのは。

 ライコウにの脇腹に噛みつく澪である。
 ぼぎりと、嫌な音がした。



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