※注意!!



 どのくらい、この闇を墜ちていただろうか。
 痛いのか苦しいのか寒いのか熱いのか――――寂しいのか憎いのか悲しいのか辛いのか。
 様々な感情が自身の中で渦巻いている。

 今の自分に物思う胸は無い。物考える頭も無い。

 ではこの感情は何処に生じて、蛇の如くのたうち回っているのか。

 簡単だ。
 私の魂自体が、澱み、暴発する不吉な瞬間を今か今かと待っているのだ。

 魂そのものが負の情念に汚され、私を狂わせる。

 堕ちていく。
 狂っていく。
 私が私ではなくなっていく――――。

 墜ちていく中、彼女の意識は何かに気が付いた。
 ここに底はあるのかと疑問に思ったのは、儀式の場に連れてこられた直後のこと。忌まわしい儀式の中で切断され、何も考えられなくなったから、つかの間に許された思考だった。
 底に行き着くのならば、先に落とされた大事な妹の身体がある筈だ。

 私と同じように切断された、私の大事な大事な、言葉を知らぬ双子の妹のばらばらになった身体が。

 けれども底は、やはり無かったようだ。
 いつまでもいつまでも墜ちていく。

 時が経つにつれ、魂が闇に溶解していくような感覚が強まっていった。
 同時に、激しいモノがが流れ込んでくる。

 それらと自分が混ざり合っていく。

 嗚呼、私が私でなくなっているのではないのだと、理解した。

 私が、私達になるだけだ。
 私という単体ではなく、私達という集合体へ変わるだけ。

 何人も何人も混ざり合って――――その中で、私の意識だけがしっかりとしていて、そして何十人分の激情に狂っている。
 狂気に、身を委ねた。


 気付けば、闇は晴れていた。


 ……いや、晴れているんじゃない。
 闇の類が違ったのだ。
 私達が混ざり合った底無しの混沌の闇ではない。

 丸い、妖艶なる月が醜く浅ましい生き物達を嘲笑うかのように金色の光を放ち、大地を見下している。

 あんな綺麗なものなど、今まで見たことが無い。

 美しい、神々しい望月が、斯様(かよう)に醜い生き物に埋め尽くされた世界にあって良い筈がない。
 あなたの光に、この世界は相応しくない。

 でも月は、物言わぬ。
 ならば、どうしよう。

 簡単だ。
 掃除すれば良い。
 家に埃一つ無ければ、快適だ。
 それと同じ。
 私達が、まずはここを、汚れきったこの場所を掃除してあげよう。


 金色の美しい満月の為に。


 掃除を始めた私達。
 掃除が終わったのは、いつだったか。

 覚えていない。



 ただ、一つ。
 臭くてかぐわしくて、不味そうで美味しそうな醜い生き物達ばかりだった筈なのに。

 最後に、大好きな香りを嗅いだような気がする。



‡‡‡




 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い――――。


 澪の言葉はそればかりだ。
 深い怨嗟(えんさ)に足先から頭頂まで凍り付くような恐怖が駆け抜ける。


 彩雪が、悲鳴を上げた。


 顔を上げた彼女は、目も当てられなかった。

 どうして、いつの間に。
 可愛らしかった顔は、俯いていた間に叩き潰されたようになっていた。ぐちゃぐちゃで、真っ赤で、目玉も片方眼窩(がんか)から飛び出し辛うじてぶら下がっている。
 彼女の唇の剥けた口が、にたりと嗤(わら)ったような気がした。

 直後、右の側頭部がぼこりと凹(へこ)んだ。
 頬の肉が更に削げ、骨が見えた。
 ぶしゃりと、首を横断した線から赤い血が噴き出した。
 左足が震えぎちぎちと捻(ねじ)れていった。
 胸が膨れ上がったかと思えば襟が押し開き複数の顔が我先にとせり出した。
 そして――――額から、二本の角が、天へ向かって長く突き出した。

 ゆっくり、ゆっくりと、大きな音を立てて彼女の身体が変わっていく。
 仲間として、そして娘のように可愛がっていた彼女の生々しい変化の課程を見せつけられるのは、見ていられない。
 けれども目が離せないのは、彼女の周りを、彼女ではない誰かの痛ましい思念が巡っているからだ。

 なんという姿だろう。
 これは、あまりにも醜く、おどろしき姿の鬼に、あの澪が変貌しようとは。

 だが、あれは……本体ではなかったのではないか。
 大陸の仙人に作らせた人形に澪の魂がおり、彼女の本体は小舟が使っている筈だ。

 だのに、彼女はこうして鬼と化した。
 まさか鬼となるのに本体であるか否かは関係ない……?


「……安倍様」

「振り返るな。隙を見せれば鬼は喰らい付くぞ。《目で見る》のも止めておけ」


 晴明の声はひきつっている。
 それに不安を煽られたのか、彩雪が問いかけた。


「せ、晴明様。澪は一体どうしちゃったんです!?」

「見ての通りだ」

「見ての通りって言われても……!」


 その時である。
 澪が甲高い悲鳴を上げた。
 すでに球体と言う形を失った頭を両手で抱え、苦悶に身を捩(よじ)る。

 駆け寄ってやりたいが、間合いに入れば餌が来たと襲われる。
 彼女が襲いかかれない距離を保ち、手を拱(こまね)いて見守るしか無いのだ。

 金波銀波とて、喘ぐように主に呼びかけるだけだ。獄卒鬼に至っては見つめているだけ。

 澪はその場に崩れた。首を左右に激しく振り、悲鳴を上げ続ける。
 彼女が苦しんでいる。
 それだけは、分かった。


「晴明。本当に、澪はこのまま放っておくしかないのかい?」

「鬼としてはまだ不完全だ。こちらに澪の本体で実体化している小舟、黄泉に双子の妹がいる限り、完全な鬼にはなれぬ。ただ……哀れな無数の犠牲者と溶け合った澪の魂が、幾重にも折り重なった破壊衝動が制御出来ずに持て余し、また幾重にも折り重なった苦痛にもがくだけだ。下手に近付いて刺激せねば問題は無い。……そう、刺激せねばな」


 晴明は澪の過去を、彼女の身体のことを誰よりも熟知しているのだろう。それでいながら、何も出来ない。希代の陰陽師すらあの澪に手を出せぬのだ。
 そこで、源信は黄泉の扉の前に立つ葦屋道満を見た。

 澪の絶叫に掻き消されているが、澪を狂わせる歌は今なおあの扉の向こうから聞こえてくる。
 それ怨嗟か懇願か――――不気味な大合唱を背に受けて、葦屋道満は澪を見つめている。


「道満は、都を襲うつもりだ。澪に私達の足止めをさせて」

「それならば――――」

「……小舟の代わりなら、幾らでも用意出来る」


 口を開いた道満は黄泉の入り口に手を伸ばした。
 ずるりと、闇から引きずり出したのは黒い不定形の生き物。
 それを引きずり澪へ近付こうとする道満に獄卒鬼が金棒を横に薙(な)いだ。

 が、軽々と避けられ、無防備に晒された脇腹に術を叩きつけられ吹っ飛んだ。岩壁に身体を強か打ち付け、粉塵と共に水の中へ倒れ込む。ぴくりとも動かぬ。


「止めろ道満! 貴様とて澪標(みおつくし)を再び苦しめてはならぬと憐れんでいたのではないのか!」

「……」


 道満は、自嘲するように、口角を歪めた。

 近付く道満に、澪が気付いた。
 呻きながら顔を上げ、立ち上がりざま身体を反転、悲鳴のような雄叫びを上げて道満へと襲いかかる!

 道満は澪の顔に向け、黒い生き物を叩きつけた。

 黒の不定形動物は一瞬にして広がり、風呂敷のように澪の身体を包んでしまった。
 一度だけ、大きく身体が震える。
 すうぅっと肌に浸透し、さほど時間がかからずに澪の姿が露わとなる。

 澪は、その場に立ち尽くした。
 茫然としているのだろうか。「あ……?」掠れた声が何度か漏れた。

 そんな彼女の頭に、道満は手を翳(かざ)し、素早く呪を唱える。

 彼が何の術をかけたのか分からぬ源信ではない。
 なればこそ、これから起こるだろうことが、恐ろしい。止めたいが、止める力を自分は持っていない。歯痒きことだ。

 その手に、何の意味が込められていたのか――――道満は澪の頭を撫で、言うのだ。穏やかに。


「腹は、減っていないか」

「……」


 澪はこくんと頷いた。


「ならば喰らえ。そこに、不味くて上手い生き物が在る。それが済めば――――もっと沢山の餌が待っている」


 彼が最初の餌と示したのは、仕事寮の者達である。
 彼女を苦しめると分かっていながら、仕事寮の仲間を餌としたのだ。
 なんと惨いことを……!


「行け」


 澪は、道満の指示に従う。
 そう、術をかけられたから。

 さっきまで守ろうとしていた者達を、喰らおうとしている。

 早く止めなければ彼女が更に苦しんでしまう。
 強く思うのに、源信には良策は何も思い浮かばなかった。

 父親代わりとして側にいたつもりだったのに――――己が、不甲斐なかった。

 闇を従える黄泉の王は、沈黙して澪を見下ろしている。



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