黄泉に満ちる狂気を孕んだ闇の障気は、生者を憎み、妬み、羨む。
 澪の後ろに庇われた生者へ向けて触手を伸ばしたそれを澪の結界が頑なに拒んだ。
 澪の力で練り上げられた結界は、澪の肩へよじ登って移動した小舟の力で強化され、吹き荒れる暴風からも、暴風に削がれ地面に叩きつけられる岩からも、粉塵からも人間達を守る。

 しかし障気の中に潜むモノは執念深い。
 復讐をしたいのか、取り込みたいのか、分かり合いたいのか、救われたいのか――――それはきっと、ソレにも分かるまい。
 あの中には死者の様々な感情が渦巻いている。
 故に断定された感情によって動いている訳ではないのだ。

 ただ、生者に対する執着が一致しているから触手を伸ばし捕まえようとしているだけ。
 引きずり込んだ後どうなるか、ソレにも分からない。

 澪はそれを許さなかった。

 結界をより強固に固め黄泉の扉を睨めつける。

 来る。

 来る。

 来る。

 来る!

 澪は結界を維持したまま小舟を呼んだ。
 小舟は軽々と飛び降りて銀波のもとへ走った。

 金波が入れ替わるように澪の側につき、共に結界を飛び出した。後ろから和泉達が呼び止めてくるが、聞く訳にはいかなかった。
 黄泉の扉から噴き出す闇が蠢いている。

 そこから現れるのは、一人の人影。
 巨大な巨大な、《魔王》――――《黄泉の王》。


「……何ということ」


 それから一定の距離を置いて立ち止まり、澪は奥歯を噛み締めた。
 彼の目は、完全に理性を失っている。
 闇で思考を塗り潰され、障気をまとって岩窟内を威圧する。

 闇に潜むソレは、触手を引いた。
 今度の標的は彼だ。
 けれども彼に絡みつくソレは明確な意思を持っていた。
 従順。ソレは、彼に従い腕に絡みつく。

 なんて、禍々しいお姿に。
 いたわしい養父の姿に、胸が痛んだ。


「しっかりしろ、馬鹿者!」


 晴明の声が空を切り裂く。
 振り返れば彼は彩雪の前に立ち彼女を肩越しに叱咤していた。

 人間には、あの姿は精神的に苦痛を与えるだろう。
 それだけ黄泉の王の存在感は、強大なのだ。
 本来この現世に現れるべき存在ではない。
 負の混沌に満たされた黄泉の世界を統べる王であるべきなのだ。

 それが今現世に姿を現し、この岩窟一帯を黄泉の障気覆っている。
 駄目だ。このままでは。
 さりとて澪に黄泉の王へ帰還を強いることが出来るのかと問われれば、答えは否だ。澪などその足下にすら届かない。

 この状況で澪のやるべきことは一つ。この場にいる人間全てをこの空間から安全に離脱させることだが――――彼らが大人しく撤退する筈もない。

 それに、仮に逃げてくれたとしても、京の都に逃げるのならば結局は同じことだ。

 何故なら。

 澪はゆっくりと視線を落とした。
 闇に紛れながらもその髪と目は浮き上がってよく目立つ。


「道満様……」


 彼と共にこちらに戻って来てしまった……。
 澪は前に出ようとするライコウ達を手で制し、道満に近寄った。

 道満は無惨に満身創痍の体で、されどしっかりと立っていた。呼吸に合わせて微かに揺れる左右の腕には幾筋もの赤い血の道が走り、指先から血が滴り落ちていく。真っ赤な血は、地面に落ちること無く闇の触手に吸収された。
 その後ろには、瞬きするかのように点滅する無数の小さな光を放つ、数多の闇の化身達。
 まるで、それらを率いる歴戦の猛将のように堂々たる佇まいである。

 どうして、そんなにも必死に戻ってきたのか。
 菊花が黄泉に落ちた道満に呼びかけたかもしれない。
 もしそうだとすれば、彼はそれをはねのけてここまで必死に足掻いたということだ。

 愛しき人の言葉を拒絶する程に彼を駆り立てた激情は、一つ。
 暴発しかけている彼のそれを、澪はその気迫から感じ取っていた。


「道満様」

「……月、は」

「反魂の相は、もう去りました」


 澪は静かに答え、天を仰いだ。
 反魂の相は去った。
 月は、もう無数の星に勝る輝きを取り戻している。
 彼が長年待ち続けた、赤く澱んだ姿ではない。

 反魂の月よりももっと生々しい赤の瞳は、月をじっと見つめた。


 ややあって――――。


「……去った、か」

「はい。次は、六百年後です。……あなたはまた、長い時をたった独りでお待ちになるのですか?」


 道満は答えない。

 菊花のことを話そうかと考え、澪は悩んだ。
 ここで彼女のことを持ち出して彼の長年の憎悪を増幅させまいか――――不安だった。
 感情を煽って彼が暴走などしてしまったら、和泉達を守りきれる自信が無い。

 結局は、澪は口を開かなかった。

 結論が出る前に晴明が言を発したからだ。


「……時の牢獄に自ら捕らわれるか、道満」


 隣に、晴明が立つ。よろめいたのを金波と晴明に従って来た彩雪が支えた。
 晴明の目は、憐れむように道満を見つめる。


「オレにはもう、時の流れなぞ関係ない。だが――――」


 ……都がその時まであるか否かは、オレにもわからぬ。
 道満は小さく、小さく笑った。それは何を嘲(あざけ)ったものか。

 「ならば――――」その笑みは一瞬で消え去った。


「せめて今、この手で、」

「! 金波、澪と小舟を連れて逃げろ!!」


 晴明の言わんとしていることは、澪にも分かった。
 道満の目が明確な目的を持ってこちらに向けられた瞬間――――晴明の怒声と同時に澪と金波は身を翻した。

 しかし――――。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ


「――――!!」


 扉の向こうから聞こえてくる歌に、彼女の足は自然と止まってしまったのだ。



‡‡‡




 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを


 歌っている。
 あの闇の中で、皆が確かに合唱している!
 その引力はこれまでと比べるべくもない。

 今までで一番近い歌声に澪の意識は一気に掻き乱された。
 元々、黄泉の障気を身に取り込んでいたこともある。
 澪の中に、遠い昔の感覚が蘇り、おどろしきモノがのたうち回り始めた。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを


 嫌だ。

 聞きたくない。

 聞いていたくない。

 殺される。

 斬られる。

 四肢を。

 首を。

 棄てられる。

 またあの穴の中に棄てられる!!

 嫌だ、嫌だ、嫌だ!!

 澪はその場に座り込んでしまった。
 頭を抱え、耳を塞ぐ。

 獄卒鬼が澪に歩み寄って扉を睨めつける。扉へと大股に接近を試みた。

 されども、葦屋道満まであと数歩と言うところで、その場から跳躍して退がる。
 鞭のようにしなりながら叩きつけられた触手が意思を持って獄卒鬼に襲いかかる。獄卒鬼が憎くてたまらない、そんな風にさえ思える程、闇が伸ばした触手はしつこく獄卒鬼を襲った。

 更には、扉の前には今なお葦屋道満が晴明達と対峙しており、双方間隙無く睨み合って動く気配を見せない。

 これでは扉から聞こえる歌を止められぬ。

 歌は、どんどん大きく、近くなっていった。
 噎(む)せ返るような血の臭いが澪を揺るがす。

 痛い……痛い。

 足の付け根が痛い。

 肩口が痛い。

 首が痛い。

 熱い。

 寒い。

 苦しい。

 助けて。

 棄てられる。

 私の身体が棄てられる。


 また繰り返す――――。


「――――ッ!!」


 澪は叫んだ。
 間近で歌われていることが、彼らが身近にいることが、彼女をより追い詰める。
 金波や銀波が彼女を呼んでも、彼女の耳には届かない。

 やがて、澪は顔を両手で覆い背を丸める。身体から黒い気が立ち上る。
 それは彼女がつい先程取り込んだモノであった。

 源信が駆け寄ろうとする和泉達を制し、澪の側に膝をついた。


 肩に手を置こうとしたその刹那である。


「にく、い」

「!!」


 源信は咄嗟に澪から離れた。

 よろりと。
 澪がゆっくりと立ち上がる。


「宮様! お退がり下さい!!」

「澪……?」

「にくい……にくい……にくい……にくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくい」


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを


 歌は、まだ、まだ、続いている。
 澪は譫言(うわごと)を繰り返し繰り返し、顔を上げた。



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