弐
「ええっと……取り敢えず澪。一つ訊いても良い?」
「子供の作り方なら、ちゃんと存じておりますよ」
「あ、ああ、そうなんだ……良かった」
顔が、良かったと言っていない。
やや口端をひきつらせつつも、和泉は笑みを維持した。実のところ、相手は誰だと問い質(ただ)したい。が、さすがにそれはみっともないし、明らかに徒人(ただびと)の子供ではないと自制した。
衝撃を受けたのは和泉だけではない。ライコウや源信も、形容しがたい顔で、澪と黒い赤子を交互に見比べている。
澪は、くすくすと笑って首を傾けた。
「どうかされましたか」
「ううん。何でもないよ。それよりも、この子の名前は?」
「小舟、と」
そっと頭を優しく、愛おしそうに撫でながら答える。
小舟――――その名前には覚えがあった。
晴明邸で、今と同じく彼女の口から聞いたのだ。
不思議な夢から目覚めた直後、苦しみもがく彼女の口から。
小舟という名前だけで、この赤子が何者なのか、ライコウに澪達の過去を聞いた和泉には分かった。
源信も同様である。ここに来るまでに、澪の人間だった頃のことは話してあるのだ。
「そっか。じゃあこの子が、鬼の……」
「はい」
「触っても良い?」
澪はそっと頷いた。
その微笑みは、本当に彼女が鬼の子の母親であるかのようだ。
和泉は怖がらせないようにゆっくりと手を伸ばし、小舟の頭をそっと撫でた。
一肌と全く同じで温かくて、柔らかい。生きている感触がしっかりとある。
この子と母親を、澪の住んでいた村の人々の先祖は殺して崇拝対象として祀り上げ、生け贄を捧げていたのだ。
なんと、哀れな子供だろう。
心からのいたわりを込めて和泉は小舟を優しく優しく撫でた。
小舟は最初こそ怯えていたが、優しい手の感触に次第に心を許し、和泉が敵ではないと安堵したようだ。目を細め、身を委ねている。
手が離れると小舟が甘えたそうに和泉の指を一生懸命に掴む姿が可愛らしい。澪は微笑んだ。
ライコウもその様子に相好を崩しかけ、はっと辺りを見渡した。
不安そうに言葉を濁しながら問いかけた。
「澪。双子の妹は……」
「恐らくはまだ扉の向こうに残っているのでしょう。あちらには、隠れる場所が沢山ありますから」
澪は扉を振り返る。
そう。あちらの方が、安全と言えば、安全だ。慣れ親しんだ世界だから、隠れる場所も、身を隠す手段も多い。
澪は立ち上がって扉に歩み寄った。
先程までと同じように額を押しつけて黄泉の世界を覗き込む。
「澪? 何を……」
「黄泉の世界を覗かれているのです。先程、葦屋道満がこの奥へ落ちました故に」
「なっ、葦屋道満が……!?」
金波の説明にライコウがぎょっとして扉を見やる。
それへ、金波が続けて事の次第を簡単に説明する。
黄泉の世界を探る澪を見つめながら、和泉達は聞き入った。
話が終わると二人は扉に近寄った。
「……そうか。じゃあ、ここを完全に封じれば――――」
……。
……。
「わっ」
「ああ」
「おお」
「っ!」
真後ろに立った影にライコウがその場を横に離れた。
そこにはおぞましい姿の獄卒鬼。一旦何処かに寝かせてきたのか、空也達の遺体が肩に無い。
彼は、ライコウの反応に苦笑を禁じ得ない金波銀波を見た後、澪をじっと見下ろした。
その視線を背に受けていても、込められた思いが彼女には分かったようだ。「ありがとうございます」謝辞を返した。
これに、獄卒鬼は何も言葉を返さない。またじっと見つめる。
澪はやはり扉の向こうを覗いたたまま、頷く。
獄卒鬼は人の言葉を話せないのかもしれないが、視線だけで――――しかも片方は背を向けているのに――――意思疎通が図れるというのは、甚(はなは)だ奇妙な光景である。黄泉の者同士、何かが繋がっている故に、そんな芸当が出来てしまうのだろうか。
二人の視線の会話を二人が黙って眺めていると、また何か獄卒鬼に何か言われたようである。
「このまま何も起こらずに封じることが出来れば、大丈夫。私も、小舟も、お役目に戻――――」
澪の言葉が途切れた。
はっと目を剥いて青ざめ和泉達を振り返る。
「いけない……離れて!!」
「澪?」
澪の声に晴明達も気付いた。
黄泉の扉を見、源信の手を退けて立ち上がる。
和泉が澪の様子にライコウへ目配せした。
金波銀波は主の言わんことをいち早く察して和泉達の手を引き、澪や獄卒鬼と共に急いで離れた。
ギイ、ギイ……。
軋む音がする。
何処から?
背後からだ。
背後の、世界を区切る堅牢な扉から――――。
振り返った和泉が、目を瞠(みは)った。
「黄泉の扉が……!」
「道満様が戻ってきます!!」
いや、道満だけではない。
彼だけでは、ない。
ギイ、ギイ……。
どんどん濃くなっていく。
また、溢れ出てきている!
標は無事だろうか。
菊花は無事だろうか。
黄泉の気が這いずって出てくる扉を振り返り、澪は大石が奏でる不穏な歌に声を震わせた。
扉が、開いていく。
広がっていく隙間から現世を覗き込むおどろしきモノが潜む闇が現れる。
ふと扉が動きを止める。
つい先程まで焦らして恐怖心を煽るようにゆっくりと開いていた扉は、不意に中途半端に開いたまま、静止してしまった。
澪は金波銀波を横に、獄卒鬼に和泉達を任せて扉を睨めつけた。
その場にいた者達の誰もが堅く口を閉ざし固唾を飲んで物言わぬ不穏な扉の動向を窺う。
緊張と恐怖、不安――――否応なしに身体は強ばり、冷や汗が流れる。
まるで、時の流れがぴたりと止まったかのようだ。何も、微かにも動かぬ。
張り詰めた静寂(しじま)の時を動かしたのは、澪の、いやに響いた声だった。
「来ます」
刹那。
闇が扉を押し開く――――!
禍々しい気が暴風となって生ある者達の身体を殴りつけた。
今まさに扉の外に出ようとしている闇が、まるで嘔吐しようと蠢く胃のようにうねり、真っ白な光を吐き出した。
異様な光景である。
純然たる闇から、純然たる光が迸(ほとばし)ったのだ。
それは天高く月へと伸びていく――――。
澪は片目を眇め、両手を広げた。
.
[ 144/171 ]*┃#栞挟戻