道満が……。

 黄泉へ落ちた。


――――ほんの一瞬、微笑みを見せて。

 澪はその場に座り込んだまま黄泉の扉を見つめた。
 周囲には未だ火の粉がまるで雪の如(ごと)宙を舞っている。
 肌に触れると刺すような熱と痛みを感じ、その部分がむず痒くなる。
 それでも、澪は扉から目を逸らさなかった。

 ……ぎぃ、と。
 扉が微動するのを認め、澪はようやっと立ち上がった。
 その時になってようやっと扉の近くにまで彩雪が移動していたことに気が付いた。

 嗚呼、そうか。
 あの人が微笑んだのは、彩雪さんにだったのか。きっと、彼女に重ねたのだ。
 今思えば確かに、道満が微笑む直前、彩雪の声が聞こえたような気がする。曖昧な記憶だから自信はあまり無いが。

 彩雪の側を通過して片方の扉に手をかけた澪は、独りでに閉まろうとする扉を手伝った。片方を閉めれば、もう片方も。
 閉まった扉を下から上まで確認し、ふらりとよろめき座り込んだ。

 そこへ、まろびながら双子が歩み寄ってくる。


「ご無事ですか……澪様」

「まだ、身体が思うようには動けませんが……二人程の損傷は、無いでしょう」


 そう言うと、そっくりな笑顔を浮かべて崩れ落ちてしまう。
 彩雪が咄嗟に二人の側にしゃがみ込んだ。

 しかし、彼女の気遣いを彼らはやんわりと拒み、彼女の背後――――こちらに近付いている晴明を示した。


「晴明様……」

「……何も考えるな」


 彩雪にそんな言葉をかけた晴明はすでに疲弊しきった人の姿に戻っている。
 彩雪が立ち上がると同時に口角をつり上げてみせ、

 膝が折れた。


「晴明様!」


 彩雪は悲鳴に近い声を上げて晴明に駆け寄り、膝をつき前のめりになった主人の身体を何とか抱き留めた。

 晴明の身体は、もう限界だ。
 魂にも損傷があるのが、澪の目には分かる。
 あれでは晴明といえども、数日は休まなければ回復すまい。
 彩雪も間近に晴明の満身創痍を見て、青ざめている。

 澪は座ったまま晴明を振り返り、その腕の中にいる黒い塊に微笑みかけた。
 晴明は彩雪に黒塊を手渡し澪に渡すように指示した。

 彩雪はきょとんとし、もぞりと黒塊が動いたのにはっとした。慌てて抱え直し、慎重な足運びで澪に歩み寄り、身を乗り出すようにして黒塊を差し出した。

 それは、小さな赤子である。
 赤子と言っても、人間の赤子ではない。
 全身が黒く、僅かな差の大きさの球体が二つ縦にくっつき、下の球体に少女の指を二本合わせた程度の太さと長さの手足が生えている。虎柄の布が、足の付け根を隠すように巻き付けられていた。
 頭部である上の球体には赤い丸が二つ横に並び、時折明滅する。これは赤子の目だ。
 目から少し上、人間で言う額には左右に小さな棘が生えている。

 短い手を一生懸命に澪に伸ばしてくる鬼の赤子が愛おしくて、澪は赤子にそっと頬ずりした。


「ただいま戻りました、小舟。たった独りで良く、頑張ってくれましたね」


 小舟の赤い目が細まる。とても嬉しそうだ。

 彩雪はその様子を見つめ、首を傾げた。
 けれどもふと空の異変を感じ振り仰ぐ。

 空には朱雀が飛んでいる。
 朱雀は彩雪が炎の身体を認めた刹那に霧散した。
 次いで、彼女は晴明を慌てて振り返る。
 晴明は両手を地面に突き立て倒れまいと耐えていた。
 朱雀を顕現させていられない程、彼は弱っている。

 「晴明様……!」彩雪は晴明の所へ急いで戻っていった。

 澪は晴明は彩雪に任せることにして、小舟をしっかりと抱き締めて立ち上がった。ふらふらと危なげに扉に近付く。
 片手を当て、額を押し当てた。
 目を伏せれば、瞼の裏にはある光景が映し出される。

 見慣れた世界だ。

 黄泉の世界。
 広すぎる世界を、澪の意識は隈無く探して回った。
 道満を、大事な妹達を。

 あの葦屋道満がそのまますんなり敗北を受け入れるとは思えない。
 菊花が道満に接触していれば、或いは――――いや、それも澪の希望に過ぎぬ。

 何百年も積み重なった道満の思いは、強すぎる。容易く拭い去れるものでは決してない。
 きっと、菊花様でも簡単には説得出来ぬ筈。
 時間をかけた。自らも満足に力を行使出来る身体でないことは百も承知である。その上で、小さな隙間にすら、意識を滑り込ませた。
 双子も澪の考えを察しているから、不安げな顔をしつつも止めようとせぬ。

 だがあまりにも時間をかけているとさすがに金波が一旦止めるように進言した。


「ほんの少しくらい休んでもよろしいでしょう。疲れが溜まれば溜まる程、見逃すことも増える筈」

「……ええ。そうですね。そうしましょう」


 頷くと、金波はほっと吐息を漏らす。

 その場に座り込むと、銀波ものろのろと身体を庇いながら寄ってきて、小声で澪に進言した。


「あっちの二人はこっち無視して滅茶苦茶良い雰囲気なんで、このまま気付かないフリで見ない方が良いですよ」


 「見たら殺さるかも」真面目な顔で言う銀波に、澪は苦笑を禁じ得なかった。
 だが、二人は自分達の世界をしっかり構築してしまっていて、こちらの存在も覚えているか怪しいところだ。
 終わったと思っているのでしょうね、きっと。
 なれば私はあの二人がこれ以上の苦労を背負わぬよう、動かなければ。

 少し休んだらまた、門の向こうを覗いて探そう。
 何か遭ったらすぐに二人に逃げるように言って――――。


「――――ゴホンッ!!」

「あのー……お二人さん? そろそろ俺達の存在に気付いて欲しいんだけどなあ……」


 とても、気まずそうな声がした。
 振り返ると、お互い顔を近付けている男女の向こうに、いたたまれなさそうな和泉達がいる。

 晴明と彩雪は一瞬で一歩後ろに退いた。ほぼ同時である。


「……安倍様。さすがに澪達のいる側では、ご遠慮いただきたかったのですが……」

「……」


 晴明に向けられた源信の声はやんわりとしたいつもの調子であったが、ほんの少しだけ非難の響きがあった。
 一応、悪いとは思っているらしい。晴明は顔を逸らし、沈黙した。

 和泉は顔を真っ赤にして大わらわで誤魔化そうとする彩雪を苦笑混じりに宥め、こちらへやってきた。
 和泉は晴明達を振り返り、肩をすくめて見せた。ライコウは顔が真っ赤でブツブツ言っている。その内容は容易に想像出来た。きっとこんな場所で、こんな状況でなんということを……なんて言っているに違いない。
 澪が小さく笑うと、源信が前に屈み込んだ。


「源信様」

「事の顛末(てんまつ)を訊く前に、三人共――――いえ、もう一人いらっしゃいましたね。皆さん、大丈夫でしたか?」


 じっと己を見上げてくる小舟に気付き、源信は微笑みかける。

 小舟はこてんの首を傾けた。かと思えば手で目の端を押さえ、横にむいっと引っ張って無理矢理に糸目にする。源信は目を閉じているだけで糸目という訳ではないのだけれど……。
 澪は微かな笑声をこぼし、小舟の頭を撫でた。


「私は道満様に術をかけられた為に身体があまり動かせない状態であるだけで、金波や銀波、この子程ではありません。私は、少し休めば大丈夫です」

「では、貴女以外の方々を優先して手当しなければいけませんね。貴女は、そのまま安静に」


 澪の頭を撫で、源信は晴明達の方へ大股に歩いていく。未だ慌てふためく彩雪を宥めて、晴明の手当てに強引に入った。
 素直に手当てに応じる晴明を見て、澪は良かったと、安堵した。

 源信と入れ替わるように側に寄ってきた和泉とライコウが、金波銀波の傷を診てやりつつ、興味深そうに小舟を覗き込んだ。


「澪。この黒い生き物は一体……?」

「鬼、に見えるけど」

「私の大事なややこです」


 答えると、二人は固まった。

 金波銀波が苦々しく笑う……。



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