「そうだ……そのまま開き切れ。黄泉の扉よ。我が願い、今こそ成就せん――――!」


 心を震わす歓喜の声に、鬼は、目覚めた。
 ゆっくりとその巨体を起こし、完全に開かれた黄泉の扉を見やる。

 そこには大好きな澪がいる。
 大好きな金波と銀波がいる。
 優しい菊花が大好きな道満がいる。
 菊花に似た優しそうなお姉さんがいる。

 黄泉の気が生気宿る生き物に向けて目に見えぬ触手を伸ばしている。

 その光景は鬼にとって、馴染み深く、もう二度と目にしたくないものだった。

 恐い。

 恐い。

 恐い。

 恐い恐い恐い!

 嫌だ、あれはすっごく嫌だ。
 気持ち悪い。
 恐い。
 悲しい。
 痛い。

 見たくない。
 触りたくない。
 澪、標。
 金波、銀波。
 お父さん。
 助けて。

 助けて、助けて、助けて。


 開けちゃいけない扉を守れなかったことを沢山、泣き出すくらい沢山怒ったって良い。
 だから、抱き締めて。
 《お母さん》のように、大丈夫だって言って、抱き締めて。

 扉から闇が噴き出す。
 漆黒が――――暗黒が、岩窟を浸食する。


「これが……黄泉だ」


 嫌だぁ!!

 鬼はたまらず悲鳴を上げた。
 本能が分かっていた。この闇に自分も呑み込まれてしまう。澪も、自分も、また『人間としてやってはいけないこと』を繰り返してしまう。

 澪や標が遊んでくれて、金波と銀波が遊んでくれて、お父さんが遊んでくれる世界が、また壊れてしまう。自分が壊してしまう。
 嫌だ。
 染まりたくない。
 美味しくないものを食べたくないのに食べたくなるあの身体がねじ切れるような苦しみはもううんざりだ。

 道満は分かってくれる。菊花の大好きな道満なら、自分達の苦しみを分かってくれる。
 その筈なのに――――道満はうっとりと噴き出る闇を歓迎している。闇を愛するのは違う。道満が愛すべきは、菊花だ。とっても寂しい思いをしている菊花だ。
 菊花は遊んでくれる。一番賢い澪も知らないことを色んなことを教えてくれる。
 鬼は菊花も大好きだから、道満を連れて行って菊花を笑わせてやりたかった。

 そうしたら、澪も、標も、金波も、銀波も、お父さんも、絶対に褒めてくれる。
 菊花に笑って欲しいし、家族に褒めて欲しい。

 そしたら、皆とっても嬉しいだろうに――――。


「さあ、転じよ。生者と死者の世界よ! 今こそ、その願いを叶えよ!」


 両手を広げた道満は、死の闇を抱き締めているかのようだった。
 身体が震えているように見えるのは、きっと喜んでいるからだ。

 でも、鬼にだって分かる。
 それは絶対に喜ぶことなんかじゃない。
 菊花がまた泣いてしまう。
 大好きな菊花が傷ついてしまう。

 鬼は再び咆哮する。

 けれども。


「……男がいつまでも泣くな」


 かそけき声が、鬼を弱々しく叱りつけた。

 それは呆れていて、怒っていて、でも――――澪みたいに、優しかった。



‡‡‡




 どうして、この人はこんなにも憎んでいるのだろう。
 晴明様を痛めつけ、黄泉の扉を開いたその腕で、澪を、しっかりと守っているのに……。

 狂喜を感じる道満。
 恐ろしいまでの陶然とした彼の後ろ姿には、澪に対する気遣いが見て取れるから、なお不気味でこちらの胸を震わせる。

 彼に一体何が遭ったのだろう。
 どうしてそんなにも――――。


「……そんなにも」

「え?」


 ふと聞こえた声は小さく掠れたものであったが、彩雪の耳にすんなりと入り込んできた。
 自由の利かぬ身体を無理矢理起こし、声を振り返る。

 そこには、地に伏した晴明。
 彼の状態こそ変わらぬものの、その側にはあの鬼が座り、晴明を見下ろしている。

 まるで赤ん坊が座っているようにも思えて、無事らしい鬼の姿に不思議とほっとした。


「死者の世界を……望むなら――――」


 鬼が晴明に向かって手を伸ばした。首を傾げてすぐに手を下げる。

 晴明のしなだれた右手に力がこもった。爪で地面を抉り、力強く突き立て、


「自ら赴くがいい、道満!」


 裂帛(れっぱく)の気合いを乗せた怒声を上げた。
 鬼が顔を上げた。黄泉比良坂へ視線を向け、首を傾げる。

 刹那、周囲の蝋燭の火が収縮と膨張をバラバラに繰り返し、騒ぎ立てる。

 そして浄化の力を得たかの如(ごと)、闇を焼いていくのだ。
 まるで、これから来る者の通り道を作っているように思える。

 道満はこの異変に戸惑いを隠せなかった。


「主、死なずして、式、滅せず」


 そこで、晴明は一旦鬼を見上げた。


「お前は下がっていろ。美しいからと言って、触ろうと思うんじゃないぞ」


 鬼は素直に従った。
 鬼が離れるのを待たず、口早に、


「宿業を手折り、朱よ、舞い降りよ……来い――――」


――――朱雀!
 闇を切り裂くような涼しく鋭い呼号。

 それに、かの清き存在は烈火の唸りで以(もっ)て応(いら)えとする。
 蝋燭の炎全てが激しく燃え上がり、頭上にまで昇る。そこで一つの塊を為し、そこから鳥が姿を現した。

 原初の火の具現。
 鳥の姿を成し、自らの意思で生きる炎。

 京を守りし四神の一柱。

 夜陰を震わせた重い羽ばたきと脊髄を震わす威風堂々とした調べの声。

 それが道満を捉えた瞬間。
 汚れた闇を焼く朱雀は、道満に向かって突進する。
 道満も冷静になりきれてはおらぬであろうが、素早く呪を唱える。その際、やはり澪を気遣い離れた場所で押しやった。

 朱雀は速かった。
 神速故に炎は線の軌跡を残し、道満に肉迫する。

 道満の守護から外れた澪へと迫る触手すら、その苛烈な浄化の炎に動きを止めてするすると退いていく。が、間に合わずに不可視の灰燼(かいじん)と化した――――とは、彩雪には分からぬことである。
 朱雀の炎は闇そのものも焼いていく。

 だがそれが浄化の烈火で包むべきは、もっと確かな形のあるもの。


 葦屋道満。


「終わりだ、道満!」

「――――晴明ええええ!」


 憤懣(ふんまん)を殺気に変え、赤い瞳をぎらつかせる。

 その直後、彼は炎に呑み込まれた。


 苦悶の叫びが、岩窟を震わした。


 烈火の炎は、彼の身体を撫でつけた。それは憎悪に囚われた哀れな男を慰撫するように、包み込む。

 朱雀の優しさを、道満は激しく拒絶した。


「晴明、貴様あああ!」

「……守るには、力が必要だと言ったな。道満」


 ひらり、ふわりと舞い落ちる赤い光の粒子。
 朱雀の炎の欠片だ。

 だが肌に触れても、熱くはなかった。


「確かにそうだな。私の力が足りぬばかりに、参号を危険な目に遭わせているばかりか……鬼や澪に手を貸してやれなんだ」


 ふらりとよろめきながら立ち上がった晴明は、浄火に焼かれる道満を見据え、唇を歪ませた。


「……だが一つ、貴様にも足りないものがあるぞ。それは――――諦めぬことだ。大切な者ならば、なおのこと……な」


 道満は虚を衝(つ)かれ、目を剥いた。
 その僅かな隙すら、炎は呑み込む。

 呑み込み――――、


「「あっ……」」


 彩雪と澪の声が重なった。

 ぐらり。
 傾いだ逞(たくま)しい身体は黄泉の闇へ。


「――――落とせ、朱雀!」

「……な」


 呼応するように、炎が弾ける。
 その熱風に押され、道満の身体が、



 落ちた。



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