大石に辿り着いた澪の目に一番に飛び込んできたのは、妖狐化し、満身創痍で伏して動かない晴明だ。
 それから、葦屋道満。
 そして――――黄泉の扉の前に膝をついて道満を見上げる彩雪。

 最後に、真っ黒な巨躯を水に浸す、大切なややこ……びくりとも、動いてくれない、吾子。

 澪は声も無く我が子の名を呟いた。
 激しい炎が燃え上がったのは一瞬のこと。
 澪はすぐに冷静になった。我を失って事をし損じるは必定。己に言い聞かせた。

 ここに辿り着く前に、彼女達の《領域》は様変わりした。
 開く――――開きかけている。
 ここから道満に駆け寄っても、儀式は止められぬ。
 ならば……と、澪は静かに歩み寄った。

 後ろには、澪の指示を待って静かに従う守護の双子。

 道満の唱える呪は声を張っている訳ではない。けれどもこの空間を、澪の核を不気味に震わせる。
 それは、ここが澪の領域だからに他ならぬ。
 あの扉を開けば、災厄が噴き出すだろう。

 配置された神器が、鳴り響く。
 まるで、澪を責めるかのように、澪にどうにかしろと訴えるように、かまびすしい。

 大丈夫。
 最悪の事態にはしない。
 絶対に――――菊花様を悲しませたりはしない。
 あの方はそんなことを望んでいない。
 私はそれを知っている。

 黄泉の扉の前で彩雪が苦痛に悲鳴を上げた。

 苦しむ彼女の声は、澪の心を激しく揺さぶる。
 けれども澪は己を抑えた。


 為すべきことを為せ。

 為すべきことを為せ。

 為すべきことを為せ。

 私は、黄泉の澪標(みおつくし)の片割れ――――それ以外に何の意義も価値も持たぬ存在。


 晴明の脇を通過しようとし、足を掴まれた。
 何かを訴えるように見上げてくる。
 澪は晴明に微笑みかけた。

 その傷だらけの手をそっと剥がし、歩みを進めた。

 ごり、と音がした。
 聞いたことの無い、だが私はこの音を知っている。
 私と標が守るべきだった扉が開く音。

 開いてはならぬ扉が開く、禁忌の音。


 ぶわぁり。

 ぶわぁり。


 生温かい風が、脈動するように吹き付け、身体に絡みつく。服の下に侵入し肌を、髪を持ち上げ汗の滲んだ頭皮を、舐め上げる。鳥肌が立った。

 澪は、道満が身動ぎした瞬間不快なそれを振り切るように地を蹴った。

 道満の脇を素早く通過し、半分程開いた黄泉の門に手を当てた。

 今ならまだ間に合う。
 闇を睨み、外を目指し昇り上がるそれをその身に受けた。
 闇は澪の身体の中へ吸収する。そうして、強引に門を閉めようと全身に力を込めた。踏ん張った足を地面に埋め、門を押し戻す。
 金波と銀波が道満に攻撃してくれる。時間を稼いでくれる。

 闇は澪にとっては濃密な毒だ。
 誤算があった。
 分かっていたが、知らなかった。
 澪は歯噛みする。
 こんなにも、我が身を侵す力の強いモノだったなんて!

 でもだからといって止められない。扉が開かれるのを許す訳にはいかない。
 暗く冷たい闇に呑み込まれそうになる己を叱咤し、足の爪が剥がれようとも石に足裏を抉られても、理性を繋ぎ止めた。
 胸の中がざわざわする。ナニかが、凶悪なナニかが目覚めてしまいそうになる。
 心臓を突き破り、肺を押し退け、肋骨の間を通過して、肌を裂いて飛び出してこようと――――。

 まだ、駄目。

 まだ私は、ここでは暴れられない。

 この闇の中でなければならないのだ!

 せめて彩雪さんには、あの姿を、見られたく、ない。
 きっと――――いや、絶対に怖がらせてしまうから。
 彼女に怖がられるのは、嫌だ。
 仕事寮の記憶の中ではただの《澪》のままで在りたい。

 だからお願い、保って、私の身体!

 が――――それを、道満が許す筈がない。

 後ろから頭を鷲掴みにされ、澪の渾身の踏ん張りすら意に介さずあっさりと引き剥がしてしまった。
 背中がぶつかったのは、道満の堅い胸だ。

 間に合わなかった。

 頭をそっと撫でられた。

 瞬間、身体から力が抜ける。
 術で力を奪われたのだと分かるまでややかかった。
 崩れ落ちそうになったのを道満が抱え上げた。


「……無理を強いて、不要に苦しむこともあるまい」

「ど、満、さ……」

「お前は……お前達はもう、何も考えるな」


 過去と役目に縛られ続けることも無い。
 憐憫を込めた言葉は優しく穏やかだ。
 だからこそ、胸を引き裂かれるような思いだった。

 この人はこんなにも優しい人。
 だから菊花様もあんなにも深く愛しておられる。

 だのに――――。

 道満は苦痛にぐったりとした彩雪の近くに澪を丁重に降ろし、放出を防いでいた存在を失い天へ、血のように生々しく赤い望月に真っ直ぐ突き刺さる闇の柱を見上げた。

 金波の銀波は、すでに地面に伏している。呻き、胸を押さえて道満を憎らしげに睨んでいる。
 澪は這いながら双子に歩み寄った。


「……開け」


 黄泉の風が、生き物の如(ごと)這い出てくる。
 最初は外の感触を確かめるように恐る恐る、それから徐々に触手を伸ばして安全を確認し、歓喜したように勢い良く飛び出した。

 それまでの鬱憤を晴らすように、或いは溜めた無数の醜い欲望を発散するかのように、見えぬ触手が澪の身体を捕らえ、服の下に侵入する。
 それを、金波が舌打ちして身体に鞭打ち見えぬ触手を握り潰した。


「……っ汚らわしい手でこの方に触るな……!!」


 澪はふらりと立ち上がり、黄泉の門を見つめた。
 歓喜して暴れ狂う黄泉の禍々しい障気によって、黄泉の扉は開き始めている。


「そうだ……そのまま開き切れ黄泉の扉よ。我が願い、今こそ成就せん――――!」


 澪は覚束ぬ足で道満に歩み寄り、その袖にしがみついた。拒絶はされない。


「駄目、です……いけません。菊花様が悲しまれ、ます……」

「……」


 道満の赤い目が澪を捉えた。その目に、憐憫は残っている。
 それが、狂気ざわめく胸に痛みをもたらすのだ。まだ、自分が理性を保てている証拠だ。

 力は思うように入らない。
 力が抜けたのは一時的だ。だがまだ戻っていない。
 それを分かっているから、道満は澪にしがみつかせたままにしているのだった。

 澪は、歯をかちかちと鳴らした。奥歯を噛み締めようにも、力が入らないのだ。

 だから、見ているしか出来なかった。

 ギィ、と絶望的な音を立て。


 その扉は、開いたのだ。


 現世の何処にも無い暗黒が、開かれた扉から広がり、ようやっと手に入れた自由に歓喜の舞を披露する。
 赤い月光を受けて赤黒い凶悪で艶美なる舞姫の乱舞を見せつけられているかのようだ。
 ぞわぞわと総毛立つ。

 手から力が抜け、前のめりに倒れ込んだ澪の身体を、道満が受け止める。

 黄泉の障気を現世に招き入れた張本人に身体を支えられるという不甲斐ない格好で、澪は目を伏せた。

 だが、心の中では、やはり駄目だったか、とはなから隠れていた諦念を認めていた。



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