嗚呼、今は、どんな状況だろう。

 目の前迫った道満。
 再び閉じ、沈黙する扉。
 彩雪を助けようとして道満に術で弾き飛ばされた晴明。


 ふわりふわりと、舞い上がる赤――――。


 己の胸の上で、浮き上がる赤い勾玉が在る。

――――もしも。
 もしもこの勾玉に目があったとしたら。
 きっとこの赤は、今、目の前に立っている道満の手の中にある蒼い勾玉と見つめ合っているのだろうと、彩雪は思う。

 夢の中に見た赤と蒼。
 番(つがい)のように真っ直ぐに視線を交わし、震え、元の姿に戻るその時を今か今かと待ち望んでいる。


「この勾玉は、二体一対。一つだけでは欠けたる円。……己が勾玉を割り、形代に隠したか、晴明」


 ……形代に、隠した。
 ぐわん、と頭を殴られたような、重い衝撃に襲われた。
 なに……それ。
 わたしの胸から現れた、赤い勾玉――――神器の勾玉の、片割れ。

 それはわたしの中に隠されていた。
 ならば、わたしはそれだけの為の存在でしかない?
 ならば、このまま勾玉を奪われれば――――わたしの、意義は。
 ぞわり、と悪寒が走った。心臓が早鐘を打ち、じわりじわりと冷や汗を掻く。
 自分の身体が奈落の底に落ちているかのような感覚に見舞われ彩雪は息を忘れた。

 彩雪は視線をさまよわせ晴明を捉える。
 晴明は、道満の術によって彩雪からはさほど離れていない壁に叩きつけられていた。まだ、辛うじて意識はある。

 苦しげな呻きの中、道満を悔しげに呼ぶ。

 それに、彼は冷ややかな視線を返し、得心した風情で笑う。


「なるほど。勾玉を失ったお前が暴走しなかったのは、片割れが傍にあったからか」


 苦痛に秀麗な顔を歪め、晴明は無言で道満を睨めつける。
 だが、不要な返答を道満は求めていない。


「妙案ではあったが――――ここまでだ」


 道満が、彩雪の胸へ手を伸ばす。
 赤い勾玉を鷲掴みにした瞬間、身体に――――魂に、激しい痛みが走った。
 勾玉が、無理矢理に引き剥がされようとしている。
 雷が頭から足先までのたうち回っているような、鋭い痛みだ。鳥肌が立ち、頭髪も逆立った。

 あまりの苦痛に叫びすら出なかった。掠れた声が、涎(よだれ)と共に口から漏れる。

 痛い、痛い、痛い!!
 止めて! もう止めて!!
 耐え切れぬ苦痛に、涙も流れる。
 もう駄目、死んでしまう――――本気で、そう思った。

 苦痛に苛まれる彩雪に、道満は謝罪をかけた。


「……すまぬな。しばし耐えてくれ」


 彼の言葉だけは、鼓膜から脳へ、ゆっくりと浸透していった。

 でも、それだけ。
 身体と魂を苛む痛みは止まない。

 こんな痛みを、晴明は受けていたのか。
 だのに、何故この場に、自分を助けに現れた?
 どうして?
 その、理由は――――。


 勾玉の、為?


 わたしを作ったのも。
 わたしを遠ざけたのも。
 わたしを守ったのも。

 そこに、《彩雪》と言う存在は、いなかった?


 ずんと、重く沈む冷たいソレの名を、彩雪は知っている。

 絶望。

 わたしは勾玉の入れ物に過ぎない。
 今まさに、むざむざ勾玉を奪われようとしている役立たずの――――。

 嗚呼、わたし、存在する意味が亡(な)くなってしまう。
 晴明様の傍に、要られない――――。


「――――参号!!」


 それは、光だった。
 叫びに乗って溢れた光が瞳を陰らせる心の闇を焼いた。

 ふわり。浮き上がったのは、身体だろうか、魂だろうか。
 包み込んでいるのは、温もりだ。安堵した。
 頬を擦ったそれは確かな感触だった。

 目頭がつんと痛んで、また涙が溢れ出てくる。だが、こぼれはしなかった。
 滲んだ視界でも、光の収まった世界はしっかりと視認出来る。

 そこに、いる。


「……無事か、参号」


 真っ白な、美しい髪が紗幕のように彩雪の視界で揺れる。

 ……妖狐化した晴明が、彩雪を抱えていた。
 しっかりと力を込めた腕で。
 《参号(さゆき)》を。


「どうして……」


 我知らず、問いが零れ落ちた。

 晴明は口角を歪めるだけだった。腰を一瞬沈め高く跳躍した。道満から距離を取る。

 が、道満はそれを逃すつもりはない。
 晴明の名を叫んだ彼が右手を伸ばす。力が、その掌に集結する。

 晴明は速かった。
 道満の動きなど読んでいたかのように、揺れる尾の一つから光の玉が生み出され、道満に向かって突進する。

 道満は舌打ちし力を霧散させて防御に切り替える。

 それへ、間を置かずして晴明は口早に呪文を唱える。


「幻雷蝶」


 ふわりと生まれた無数の金色の蝶。
 それらはまさに雷の速さで道満を取り囲み、襲いかかる。

 道満は結界を作る。

 ばちばちと雷撃が鳴り響く。岩窟の壁を一瞬一瞬黄色に染め、幻雷蝶の襲撃を凌ぎながら道満は口を開く。


「……忠告を忘れたか?」

「……」

「いくら傍らに勾玉の欠片がいるとはいえ、己が自身に勾玉を持たぬお前では。いつ暴走するともしれんぞ」

「ふん、人の心配とは余裕だな、道満」


 晴明は不敵な笑みを浮かべる。

 けれどその笑みに、彩雪は更に不安を煽られるだけだった。


「そうですよ、晴明様! 道満さんの言う通りです!」


 笑みは一転、不機嫌そうに彩雪を睨む。


「……お前は。敵の言うことを、素直に肯定する馬鹿がどこにいる」


 これ見よがしに溜息などつかれるが、そんな場合ではない。
 彩雪は食い下がる。


「だって、そんな体で暴走したら、晴明様の身が持たないんじゃないんですか!? そんなの、絶対に駄目です!」


 最悪、晴明様の命も――――。
 考えるだけで、ぞっとした。
 そんなの、嫌だ!


「勾玉なら……わたしが、命に代えても守りますから」


 そう。
 このままわたしが勾玉を守りきれば良いのだ。
 所詮わたしは勾玉を守る為の器に過ぎない。
 勾玉さえ無事なら、反魂の儀式を成功させなければ――――。

 その為なら、わたしの命なんて!

 決然と振り仰ぐ式神を、晴明は無表情に見下ろした。


「……その必要は無い」

「でも!」

「そんなもののために、お前が命をかける必要は無いと言っている」


 ……え?
 彩雪は目を剥いた。
 聞き間違いでもしただろうか。

 今……彼は、なんて?

 勾玉を――――大切な神器の勾玉の片割れを、『そんなもの』?

 そんなぞんざいな言い方を……どうして出来る?
 彩雪は勾玉を隠す為の器であった。
 自分が何なのか……その問いの答えはそれだ。
 それ以下になれても、それ以上にはなれない存在――――それが、わたしでは?

 だのに、この人は。

 勾玉を『そんなもの』?

 唖然とする彩雪に、晴明は勝ち気な微笑を浮かべて見せる。


「勾玉などに頼らなくとも、暴走は抑えてみせる」


 ……お前さえ居れば、できる。
 彼は、彩雪を視界に収め、断言する。


「それに、……お前は私のかわいい式神だ。奴には指一本触れさせんよ」


 続いた言葉は口早で、彩雪にしか聞こえない程小さきもの。
 しかし、彩雪の胸中でその言葉は大きく反響し、温もりを以て全身に染み渡っていく。
 己の存在意義を知り、己の想いすら無駄であると絶望する彩雪を洗脳するが如く、心地良く癒し、下らぬ迷いだと疑念を溶かしていく。


『あの子に、本当に必要なのは――――』


 ……心の、拠り所だと。
 耳許で囁かれているかのように蘇ったその美しい声は、葛葉のそれである。

 自身の頬を涙が伝っていることに、彩雪はその時気付いた。


「まったく……、さっきから泣いてばかりだな、お前は」


 泣くのは赤子だけで十分だ。
 つんけんした言葉とは裏腹に、晴明の声音は柔らかだ。
 彼の視線は、微動だにせぬ鬼に向けられている。

 けれども、言葉は彩雪に向けられたものだ。


「今度から、泣く度に都を一周だ。いいな?」

「……はい。がんばります!」


 しっかりと彩雪を抱きかかえたまま、晴明は笑みを浮かべる。
 それはいつも見ていた笑顔だ。
 泣いてくしゃくしゃになったみっともない顔だけれど、彩雪も笑顔を返した。

 彼女の中に、下らぬ疑念も絶望も、もう無かった。



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