弐
彼は肩越しに彩雪を振り返り、鼻で笑った。
「やっと気付いたか。たわけが」
「────」
嗚呼、晴明様だ。
晴明様だ!
彩雪は声を張り上げて主の名を呼び、大粒の涙をこぼした。
嗚呼、良かった。生きている。晴明様は無事だ。
本当に良かった!
感涙にむせぶ彩雪の心が、雪が溶かされるように強ばりが解けていく。考えたくなくてずっと顔を背けていた不安が失せた身体から力がふっと失せた。
涙を止められない。そんな状況ではないと分かっているけれど。
どんなに心配していたか、どんなに無事を喜んでいるのか、晴明に伝えたくて、しゃくりあげながら下手な言葉を紡ぐ。
さぞ聞き苦しかっただろう。
されど、晴明は微笑みを浮かべ静かに聞いた。聞いてくれた。彩雪の気持ちを受け入れてくれた。
そして、収まったのを見計らって、
「泣くな馬鹿者。安心するのはまだ早い」
そうだろう、道満────。
晴明はゆっくりと首を巡らせた。前に顔の向きを戻す。
「……来たか、晴明」
晴明の出現に応え、徐(おもむろ)に立ち上がる道満であった。
彼の背に沈む大岩は自らが敷く陣の上に神器を配したまま未だ鳴動する。
澱んだ靄(もや)が彼を取り巻いているように見えてしまうのは、気の所為ではなかろう。
静かにこちらを威圧する道満に、晴明は表情を消した。
「まったく……私の式神に手を出すとは、いい覚悟だな、道満。それに、……止めを刺さぬとは、詰めが甘いのではないか?」
にやり。口角が嘲りに歪む。
しかし道満にさしたる揺らぎも無い。
「……放っておいても、大事無いと思ってな」
その傷では、ここまで来るのがやっとだろう?
試すような口振りに彩雪はえっとなった。
道満は黒い手で晴明を指差す。
すると、道を示すかの如く並べられた蝋燭の火が、ふっと勢いを増した。
急激に明度を高くした空間。
晴明の姿も、明確に浮き彫りになる。
息を、呑む。
凄惨な有様だった。
どうして分からなかったのだろう。不思議に思うくらいにずたずたに引き裂かれた着物は赤い液体でぐっしょりと濡れ、或いは固まって壊れた妻戸のようにはたはたと揺れる。
血によって変色した服から覗く肌は青白く、目の下の隈も色濃く浮き上がっている。唇の色も、悪い。
どうして、気付かなかったのだろう。
青が、赤を得て危うく変色しているのに。
こんなにも血の臭いが、しているのに。
「晴明……様……」
晴明は無言だ。
否定せぬ晴明は、道満にとって脅威たりえぬ。
「無理はしない方が良い」
道満は身体を反転させ再び呪を再開した。
晴明は舌を打つ。
「ずいぶんと、見くびられたものだな」
「……事実を告げたまでだ。今のお前には、澪標(みおつくし)程の危険を感じぬ」
呪を中断して、晴明の言葉に返してやる。
こちらには、お前に対してこれだけの余裕があるのだと見せつけている。
道満の嘲りに晴明が苛立ちを募らせていくのが、側に拘束されている彩雪にはよく分かる。
元々は、その怪我は彩雪がしくじった為に負ったもの、彩雪がいなければ負うことも無かったかもしれない怪我なのだ。
彩雪は奥歯を噛み締めて俯いた。
今頬を流れる涙は先程のそれとは違う。
それを知られたくなくて隠した。
そんな彩雪へ、
「……お前のせいではない」
優しい、声が降ってきた。
顔を上げると、晴明が彩雪を穏やかな笑みで見下ろしている。それはこちらをいたわっているようで、思わず息を吸って目を剥いた。
「全ては私の力不足ゆえだ。お前が気に病むなど、生意気にもほどがある」
「晴明……様……」
「それとも何か? お前にそこまで憐れまれるほど、私は落ちぶれたと言いたいのか? ……ふむ、これは堪えるな。なんと情けない我が身よ」
この場に似つかわしくない、優しさの滲み出る揶揄(やゆ)。
彩雪は大きく、激しく首を左右に振った。
晴明は鼻を鳴らす。
「ならばいい加減浮上しろ馬鹿者。鬱陶しいぞ」
「な……鬱陶しいって……!」
それはあんまりじゃないですか! わたしは、晴明様が心配で……!
そう反論しようと口を開くも、耳に飛び込んできた言葉に口は動きを止めた。
「……お前に泣かれるのは敵わん」
ぽつりとこぼれたのは、きっと────いや、間違い無く晴明の本心だ。
意外だった。
口を開けた間抜けな姿のまま晴明を見上げていると、晴明は土気色の顔を歪めた。
……ああ、何だか、その様子が可愛らしい。
まるで戸惑う子供のようじゃないか。
我知らず、笑みが浮かんだ。
「……そうだ。お前はそれでいい」
不敵な笑みを浮かべるも、そこにははっきりと安堵が見える。
その優しさに、心が満たされる。
嘆きなど何処に行ってしまったか。もうこの胸の中には無い。
晴明は彩雪が落ち着いたのを認め、道満へと静かに言葉をかけた。
「道満」
道満は答えぬ。視線すら向けぬ。
晴明は鼻を鳴らした。
「余裕だな。最早私に、貴様を止める術は無いと?」
「……ああ。その通りだ」
呪を止め、肩越しに振り返る。
それを受け、晴明の声が一際冷え切った。
「これは────本当に舐められたものだな……」
術はまだ、残しているぞ。
余裕の態度を崩さぬ道満に、晴明は告げる。
一歩、踏み出した。砂利を擦って耳障りな音が鳴る。
刹那、ふわりと足下から光の筋が伸びた。それは細く長く、無数にばらばらに上を目指す。
晴明の下半身が見えなくなりそうになって、彩雪ははっとした。
これは────!
「……なるほど。妖狐化か」
彩雪の答えを、道満が口にする。
そこでようやっと晴明に向き直った。
されども、余裕は崩されていない。彼は妖狐化にもさほどの焦りも警戒も抱いていない。
「先ほどは遅れを取ったが、此度はそうはいかぬ」
ふわり、と蕾が花開くように光の筋は広がり円を作り上げた。
一層輝きを増した光を、晴明の肌を伝う汗が反射する。
緑の黒髪が軽やかに踊った。
されども、彼の皮肉げな笑みは歪んでいる。
……耐えられるのだろうか。
晴明様の満身創痍の身体は、妖狐化に耐えられるのだろうか?
不安を感じた彩雪の背筋を冷たいモノが這う。
大丈夫なの?
あんなに傷ついているのに。
あんなに顔色が悪いのに。
道満さんを止めるにはそうするしかないって分かっているけれど────。
……。
……。
……って、何を言っているの、わたし。
意識の中でもう一人の彩雪が叱咤する。
わたし、信じるって決めたでしょう?
決めたんだから、目を逸らさずにこの戦いを見なくちゃいけない。
それが今の私にできる、ただ一つのことなんだから。
「返してもらおうか、道満。神器と、参号を!」
唸るような怒号が反響する。
急速に膨れ上がる妖気に彩雪の肌がびりびりと痛みを訴えた。
大岩の鳴動が、増したような気がする。
赤く照らされた剥き出しの岩肌が、震動しているように見えた。
異質な気配が突如膨張し温度を、空気を塗り替えた。
されどもやはり、道満は動じなかった。
「……お前は、また大切なものを殺すのか?」
空気が、大きく揺らぐ。
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