壱
「────それは、姫が望んだことではありません!」
叫んだ直後道満は大きく反応を示した。
視線を彩雪へ向け────赤い瞳に、感情が移り込む。
彩雪は確かな手応えを感じた。
やはり彼は夢の中の、姫を抱いて慟哭した男なのだ。
でなければ彩雪の言葉に、まるで面のようだった無表情に感情が宿る筈がない。
人間が持つ感情全てを取り戻した、この空間の現在の支配者たる彼の変化を空気は敏感に察知し、震えた。
がらりと様相を変える。
こんなにも変わるとは、彩雪も予想していなかった。
この変化は一瞬のこと。
急激な変化であったが為に彩雪はつかの間呆気に取られた。
『姫』たった一言に道満は反応した。彩雪の予想以上に大きく感情を揺るがした。
それ程までに、自身の放った言葉は────。
「きゃっ!」
前髪が風で揺れたかと思うと、目の前に道満が現れた。
いつの間にここまで距離を詰められたのか。
道満は感情揺らぐ瞳を細めやや乱暴に彩雪の襟を掴んだ。
「……姫とは、誰のことだ」
低い声の中に、感情が、僅かばかりの心が、揺れている。
彩雪は目を見開き唾を飲んだ。
咽の鳴る音が、いやに近い。唾を飲み込んだだけの筈なのに、苦々しい物がせり上がってきたかのようだった。
「……誰か、と聞いてる」
また、声が低くなる。
次第に震え始めた手は、六情のうちのどの感情を表しているのか。彩雪には分からない。
分からないが、口を開いて、彼の問いに答える。
「……あなたが胸に抱き、喪った人です」
夢に見た、あの姫君。
ぐったりと力無く道満の腕に抱かれた姫の悲痛な姿を思い浮かべながら、彩雪は道満を見据えた。
今度は道満が息を呑む。
戦慄(わなな)く皮の薄い唇からは震えた吐息が零れ、赤い瞳は更に狼狽(うろた)え揺らめく。
そんなにも、大切な人だったんですね。
それは姫も同じ。
とても大切な存在なればこそ────。
「なぜ……それを」
「夢で見たんです。止めて欲しいという、悲しい声を聞いたんです。あの人を止めてって、姫の声を」
「────ふざけるなっ!!」
大きく開いた口から飛び出したのは怒号。
空気をも震わす激情の発露に彩雪は身を竦(すく)めた。肌がびりびりする。
乱れに乱れた彼の大音声。
彩雪は危うく押し潰されかけた。
「ふ……ふざけてなんかいません、わたしは」
怖じ気付いた己を抑え込み、彩雪は言い募る。
落ち着きを取り戻した道満は、目を伏せややあって「……もういい」彩雪の襟を放した。
彩雪に背を向け、再び大岩の方へと歩き出す。その足取りは、ふらついている。
彩雪は道満を呼んだ。信じて欲しかった。姫の想いを、願いを受け止めて欲しかった。そして、今行おうとしている大罪を、止めて欲しかった。
だが、道満の広い背中は強く拒絶する。もう彼は彩雪の言葉を受け入れない。
彩雪は諦めなかった。必死に声を張り上げた。よしや咽が嗄(か)れようとも、このまま沈黙してはならないと思った。
道満は、大岩の前に至ると懐から勾玉を取り出した。晴明から奪った蒼い勾玉だ。
大きな手の上に浮き上がったそれは、澄んだ鈴のような音を立てた。
すると────大岩が微動する。
周囲に光の粒子が舞い上がり、紗幕のように大岩を囲う。
大岩を囲う陣。場所を定められたかのように、陣に向かって上からゆっくりと降りてきたのは、彩雪にも見覚えのある物だった。
八咫鏡。
草薙剣。
御衣黄の宮、和泉が手にした神器である。
和泉が所持している筈の神器が、陣の上に────静かに鎮座する。
彩雪はまた声を張り上げて道満を呼んだ。
やはり、黙殺。
返ってきたのはようやっと聞き取れる程の小さな詠唱のみである。
ぞわりと、悪寒。
……始まる。
始まってしまう。
嗚呼、わたしでは止められないの!?
道満の掌に浮かぶ月齢盤も、あの月と同じように赤く染まっていく。
陣もより赤く光を強め、雷のような光の筋を放つ。
月齢盤も、似たような現象が起き始め、お互いの光の筋が交差した。
赤い。
赤い。
赤い。
何もかも赤く染まっていく。赤く喰われていく。赤く汚れていく────。
このままでは反魂が……隠世(かくりよ)と現世(うつしよ)が入れ替わってしまう。
道満の呪に答えるかの如く、地中から唸り声が聞こえる。
大岩だ。大岩が唸りを上げている。
彩雪は身体を震わせた。怒号にも、呻吟(しんぎん)にも思える不気味な声が、彩雪の身体の中に染み込み、全ての内臓を侵食しているような────気持ち悪い感覚に全身が冷えた。
けれどふと、姫と道満のあの姿が脳裏をよぎる。
……あの人はまだ戻れる、まだ帰れると、もう一人の自分が励ます。
だってあの時、道満さんは心を大きく乱した。
大切な大切な姫に向けられた感情が、垣間見えた。
彼はまだ、人間でしょう?
彩雪の心に期待が芽生える。
再び声を張り上げ、道満を呼ぶ。
どうしてわたし、こんなに必死になっているんだろう。
姫の願いがあるから?
都を守りたいから?
それもある。
でも────。
一瞬、ほんの一瞬だ。
わたしには道満さんの後ろ姿が、ほんの一瞬だけあの人に見えたんだ。
意地悪ばかりしてくる、わたしの主に。
止めたいと思いながら道満さんを放っておけないと思ってしまうのは、きっとその所為。
おかしな話である。
二人は相反する関係。それなのに、同じに思えるなど。
彩雪は、叫び続けた。
まるで手応えを感じない。
ならばと拘束から逃れて道満に駆け寄ろうとするも、キツく縛られた縄は彩雪の身体に食い込むだけ。摩擦で肌がひりひりと痛んだだけだ。
月を仰げば、確実に喰われていく月が何も出来ぬ彩雪をせせら笑う。
「……なんで」
なんでわたしには、壱号くんや弐号くんのような力が無いんだろう。
悔しさに奥歯を噛み締める。
力があれば足手まといになんてならなかった。
晴明様だって助けられたかもしれないのに。
道満さんだって、止められたかもしれないのに。
……重要な時、わたしは役に立たない。
嗚呼、なんて無力な式神だ。
何も出来ぬ。
ただ、黄泉の門が開かれる儀式を眺めているだけなんて。
嫌、そんなの嫌。
「……力があれば、良かったのに」
我知らず、本心が口から零れ出た。
────情けない。
自分が惨めに思えて目頭が熱くなる。
ああもう……どうして、どうして、どうして!
これじゃあわたしは何の為に生まれたのか────。
「ほう……下僕にしては面白いことを言うな。私を笑い死にさせる気か?」
「……え?」
空間を乱したのは、凛とした、しかし小馬鹿にした軽やかな声だ。
いつの間に俯いていた顔を上げると、目の前に移ったのは青。赤に彩られたこの空間でも浮き上がる青。
蝋燭や陣の光を受けてなお己の色を失わぬ美しい黒髪を揺らすのは、
安倍晴明。
彩雪は、愕然と顎を落とした。
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