頼子の邸へ送り届けようとした澪は、しかしその周囲に不穏な気配を捉え即座に方向を変えた。
 式神だ。道満の。
 ただこちらの動向を探る為の偵察なのだろうが、念の為に安倍晴明邸に向かうこととする。万が一にもまた人質に取られては頼子も酷だ。

 道すがらその旨を伝え、無人の安倍晴明邸は彩雪の部屋に、頼子を下ろす。


「頼子様。皆様がお帰りになるまで、ここに身を休めて下さいまし」

「ありがとうございます。……澪」

「無理に呼ばずともよろしいですよ。説明もろくに出来ぬこの状況、頼子様にとって、私が澪でないことは承知の上ですから」


 気まずそうな頼子に気にすることは無いと笑いかけ、澪は腰を上げた。大股に歩き出したのに、頼子が慌てて呼び止める。


「あ、あの、澪!」

「……? はい」


 簀の子で立ち止まった澪は頼子を振り返る。

 頼子は未だ困惑の強い表情で澪を見上げ、頭を下げた。


「澪。本当にありがとうございました。和泉様にも、どうかお伝え下さい。そしてお兄様に、足枷になってしまったこと、本当に申し訳ないと、」

「ライコウ様に、謝罪は必要無いのではありませんか」


 兄が妹の為に心を砕くのは、当然のことでしょうし。

 そう。兄が妹を守ろうと動くのはごく当たり前のこと。
 でなければ――――私は、私達を救う為に《あの人》のした行動が分からなくなってしまう。
 澪はそう言って、首を傾けて微笑む。


「謝るよりも、もっと別の言葉をおかけになった方がよろしいかと存じます」

「別の言葉……」

「そちらの方が、きっと兄君は喜ばれますよ」

「……そうですね。そうします」


 頼子もその言葉に辿り着いたようで、小さく頷いた。

 そう、彼女は言える。
 自分を守る為に動いてくれた兄に、《感謝》を伝えられる。
 私とは違って。

 澪は頼子に一礼し、足早に邸を飛び出した。頼子がまた呼んでいたけれど、聞こえなかったフリをした。

 と、数歩進んだ先で脇を鋭い風が通り抜ける。
 それは、鳥だ。
 大型の猛禽類。
 澪は足を止めて苦笑を滲ませた。

 彼は――――普賢丸は近くの築地に停まり、こちらを見下ろしてくる。

 その鋭い目が語るものに、澪は眦を下げた。


「貴方の大切な人達をこれ以上危険巻き込まぬようにしているのに……あなた、それを分かって私に二人と合流しろと言うの?」


 甲高い鳴き声で返す。
 それに含まれた肯定に澪はほうと吐息を漏らした。
 このまま逃げてしまおうか――――そんな考えを抱いた澪を逃がさぬように、普賢丸は肩へと移動する。急かすように頭をつついてきた。猛禽類の嘴(くちばし)は地味に肉を抉ろうとするから痛い。


「分かりました。分かりましたから、私の頭皮を食べないで下さい」


 宥めるように言い、普賢丸を肩から下ろして胸に抱く。嫌がって逃げるかと思ったが、思いの外大人しい。澪が行くと応じたからだろう。
 澪は嘆息を漏らし、唇を歪めた。

 普賢丸の意思に従って、頼子の監禁されていた廃邸へと駆け足に向かった。

 黄泉の気は、頼子を捜しに外に出た時よりもうんと濃くなっている。
 にも拘わらず闇に蠢くアヤカシの姿が思った以上に少ないのは、あの獄卒鬼の気が一帯に残留しているが故。潰されぬよう、連れ戻されぬよう、完全に気が消え去るまで息を殺して潜んでいる。
 それを幸いに思いながら、件の邸の、壊れかけた築地に飛び上がった。足下が崩れたがすぐに立て直す。獣だった頃に培った反射神経のお陰である。

 下に降りようとして、止める。
 築地の上から二人の様子を窺った。

 血の臭いがして、くらりと眩暈。後遺症か、まだ引きずられそうになる意識を繋ぎ止める。しっかりしろとでも言わんばかりに普賢丸が腕をつついた。


「……大丈夫です。歌を聞いている時よりも、ずっとましですから」


 深呼吸を繰り返し、下へ落ちた視線を上げる。

 ライコウの懐に和泉が飛び込む形で、その太い首に小太刀を当てていた。力を加えれば研ぎ澄まされた刃はその肌を無情に裂くだろう。
 ライコウの膝丸は、和泉の肩に沈み込んでいる。鍔とはばき部分に程近い部分を受け止めたことが幸いして、深くは入っていないらしい。血の臭いはこれだ。

 肉を切らせて骨を断つ――――肩を犠牲に太刀を受け止めてのこの反撃は、恐らくライコウも慮外の行動だった筈だ。
 でなければ、まんまと小太刀を首筋に這わされている訳がない。
 彼は、驚愕の顔で和泉を見下ろしている。

 丁度、決着がついていたようだ。
 ライコウが微笑んで目を伏せたのに、ようやっと下に飛び降りる。


「……本当に、強くなりましたね、宮」


 安堵した風情で、和泉に語りかける。


「拙者は、貴方の側で支え、助けになることが、貴方に逃げ道を与えているのかと、思っていました。一人で使命に立ち向かえる強さをもてないのは、拙者のせいだと」

「……違う。それはお前のせいじゃない。俺が、情けないほどに、弱かっただけだ」


 ライコウは、小さく笑った。


「……しかしそれは、以前の貴方だ。今では、神より与えられた、この国と民を守るという使命を、ちゃんと受け入れている……この国の皇としてふさわしい方に成長なされた」


 和泉からよろめきながら離れ、その場に跪(ひざまず)く。
 和泉はそれを静かに見下ろすだけだ。


「もはや拙者の……、拙者の役目は終わりました。どうぞ、このまま宮の手で、とどめをお刺しください」


 粛々と差し出したるは、己の首だ。
 殺してくれと、彼は穏やかに厳粛な処罰を乞う。

 ライコウは最初から、和泉に負けたその時に死を選ぶつもりだったのだ。
 妹を守る為とは言え、和泉に克己を促す為とは言え、ライコウの犯した罪が正当化されない。反逆は反逆。更には世をおどろしき世界に変えようとする者に荷担し三種の神器を盗み出したのだ。
 酌量の余地は、無い。

 和泉は沈黙を保ったままだ。
 されどこちらの気配を察知したらしく、一瞬だけこちらを見、驚いたように目を丸くする。ややあって、小さく笑ってライコウに視線を戻した。


「……俺に、その首を差し出すというのか?」

「はい。拙者は咎人です。貴方を裏切り、三種の神器を奪い去った。許されるべきではない」

「妹はどうする。お前が命をかけてまで守りきろうとしていた家族を、残して死ねるというのか」

「今の貴方にならば、頼子は任せられます。いえ、頼子だけではない。この都の未来も、何もかも。拙者がいなくとも、もはや何も問題はない」

「……そうか」


 和泉は吐息を漏らす。
 暫し沈黙し、ライコウの手から膝丸を取り上げた。

 彼の背後に立ち、柄を握り締め――――。


 斬り払う。


 落ちたのは、存外軽い物だった。
 はらはらと散り散りに落ちていくのは――――長い髪。

 和泉の切り落とした物は首ではなく、ライコウの髪であった。

 茫然と地面を凝視するライコウに、和泉は低く、静かに告げた。


「咎人ライコウは、今この瞬間に、死んだ」


 ライコウは振り返り、丸く見開いた目で和泉を見上げる。何を、と声も無く呟く。


「宮……」

「今、俺の目の前にいるのは、新たに生まれ変わったライコウだ、咎を背負ったと言うのなら、お前は自分の命でその咎を精算しろ。お前の……命は俺が預かる」


 これ以降、勝手に命を捨てることは許さない。
 その命尽きるまで、俺とともに都を守れ。
 厳かに放たれた命令は、しかし優しい響きを含む。

 ライコウは再び地面を見下ろした。
 ぽとりと落ちたのは、涙。
 奥歯を食い縛り、ライコウは泣いた。静かに、大粒の涙を流し続けた。

 それを普賢丸と共に見守っていた澪を、和泉がまた見やる。
 己の選択でありながら何処か安堵したような笑みを浮かべる彼に、澪は静かに頭を下げた。



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