丁度、和泉、ライコウ両名と、北狄がそれぞれ後方に跳躍した直後のこと。

 一際大きく大地が揺らぎ、軋んだ。
 それからややあって北狄の前に巨大な塊が落下した。再び、地震。
 悲鳴を上げる頼子を抱き締めて、澪はほうと吐息を漏らし薄く笑んだ。

 ……嗚呼、やはり、来てくれた。見つけてくれた。
 頼子の頭を撫でながらその塊に笑いかけると、青い目をしたおぞましい顔が、こちらを向いた。
 鬼だ。爛れたような皮膚で歪んで見えるとても恐ろしい形相の、ライコウすらその影にすっぽり隠れてしまう巨大な体躯をした鬼。その額からは二本の角が天に向けて伸びている。
 澪の胴程に太い右腕には棘が無数に取り付けられた金棒が握られていた。指に生えた爪は、どんな刃物よりも鋭く尖っている。


「お前……」

「アヤカシ……!?」

「違うみたいだよ。……澪」


 和泉がこちらを振り返る。
 澪は頼子を抱き締めたまま頷いた。


「獄卒鬼さんです。いつも、私達の補助を担ってくれている方ですので、味方ですよ」


 頼子の頭を撫で放す。
 不安から服を掴んでくる彼女に大丈夫だと言い聞かせ、ゆっくりと、醜い獄卒鬼に歩み寄る。

 が、獄卒鬼は片手で澪を制し、ライコウを見やった。鷹揚に歩み寄り、彼の首筋に手を伸ばした。
 咄嗟に膝丸を上げるが、金棒を盾に防がれた。
 伸ばした大きな手は何かを握り締める。ぴぎゃ、と小さな悲鳴が聞こえライコウがはっと獄卒鬼を見上げた。

 ぞんざいに放り捨てたのは、黒い塊。

 蟲だ。
 ライコウを監視する為つけられていた、蟲。
 蟲を見下ろしたライコウは獄卒鬼を見上げ深く一礼した。

 構わないと言う意思表示だろう。ライコウの頭を撫で、獄卒鬼は北狄を振り返った。

 北狄は大袈裟な程に距離を取る。
 忌々しそうに獄卒鬼を睥睨(へいげい)した。
 北狄は、彼のことを知っているから、警戒を強めている。


「……ふざけるな……何で――――獄卒鬼が何でここにいるんだよ! 道満様は!? あの方が獄卒鬼一匹逃す訳がないだろ!?」

「……」


 獄卒鬼は何も言わない。
 彼は同じ獄卒鬼、加えて繋がりの強い澪達以外とは意志疎通が出来ないのだ。仮に彼が何かを言ったとて、北狄に分かろう筈もない。
 北狄は得物を回し、獄卒鬼に襲いかかった。

 しかし、獄卒鬼はそれを金棒で容易く弾く。
 腕を離れて地面に落ちたそれを分厚い肌で岩よりも硬い素足で踏み砕いた。

 北狄が逃げようとすると足踏みして地震を起こし、北狄の走りを妨害する。転んだのを、薄い腹に金棒の先を容赦無く落とした。


「ぐふぅ……っ」


 ぼぎりと音を立てて折れたのは肋骨か。
 されどもその身体は不要なものだ。黄泉に還れば、そんな物は朽ちて無くなるのだから。


「ちく、しょぉぉ……っ!!」


 憎悪の声を漏らしながら、北狄は絶入する。手を伸ばすも、途中で落ちた。

 動かなくなった北狄の身体を肩に担ぎ上げ、獄卒鬼は澪に歩み寄った。同時に、普賢丸が飛び立ち築地の上に停まった。

 わざわざ片膝をついて視線を合わせてくれる獄卒鬼に、澪は笑って一礼する。


「お久し振りです。鬼さん。この度は、ご心配をおかけしました。標と小舟のこともあなたに頼んでしまってすみません」


 この醜い強面を見るのも、随分と久し振りだ。
 懐かしさと安堵に、胸が暖かかくなる。

 獄卒鬼は無言で澪の頭を撫でた。
 手から通じて伝えられる情報に、澪は目を伏せ、深く頷いて見せた。


「承知致しました。私も早急に黄泉比良坂に戻ります。お捜しいただいて申し訳ないのですが、先に戻っていただけますか」

「……」

「ええ。時間はかかりません。ありがとうございます」


 獄卒鬼は暫しの沈黙の後、立ち上がった。
 和泉とライコウを一瞥し、また微かな地響きを起こしながら、歩き出す。頼子から大幅に距離を取って回ったのは、彼女が獄卒鬼に怯えているのを察してのことだった。
 築地に金棒で穴を開け、身を屈めて出て行く。

 澪は獄卒鬼の背中に頭を下げた。
 姿が見えなくなっても、震動は感じる。
 その感覚を懐かしみながら澪は和泉達に向き直った。


「鬼さんのお陰で、呆気なく終わってしまいましたね」

「……そうだね。まさか、澪の知り合いが手柄を持って行っちゃうとは。しかも、あんなにも簡単に」


 和泉は肩をすくめる。
 獄卒鬼なぞ、初めて見ただろう。手柄を取られたなんておどけているが、唐突な獄卒鬼の登場で幾らか戸惑っているようだった。まあ、あの見てくれでは、無理もない。アヤカシ以上に怖いもの。

 そんな和泉以上に、獄卒鬼が澪の知り合いとも知らなかったライコウが困惑していた。


「澪、あの鬼は一体……獄卒鬼と言っていたが」

「私のお役目のお手伝いをして下さる獄卒鬼さんです。私のことを迎えに来て下さったようで。彼にも随分と心配をかけてしまっていたみたいです。いっつも私達のことのお世話をして下さる、とてもお優しい方なんですよ」


 『お優しい』
 その言葉に、ライコウは微妙な反応をした。口角をひきつらせ、


「……そう、か。あれが……優しい、方」

「あら、ライコウ様にも怖いと思われることがあったのですね」

「! 違っ」

「冗談です。それでは、私は頼子様をお送りしてから、《あちら》に戻ります。源信様や金波銀波のことが気になりますから」


 ライコウをからかい、澪は頼子に歩み寄る。小さな手を取って立ち上がらせた。背を向けて屈み込むと、頼子がえっと声を漏らした。


「澪……あの、さすがに澪にわたくしは背負えないのでは……」

「あら、先程壁を壊しましたのに?」


 壊した邸の壁を指差せば、頼子は声を詰まらせた。


「え、ええと……そう言えば、そうでしたけれど」


 これに反応したのはライコウだ。
 ぎょっとして邸の壁を見やる。


「……澪があの壁を?」

「突進してね。今も、獣の時と同じくらいの力があるんだと思うよ」

「同じ身体ですから」


 笑顔で肯定し、頼子を促す。


「さ、急ぎましょう。和泉様達の邪魔になってはなりませんから」

「あ……」


 頼子が、和泉達を見やる。眦を下げた。

 二人にとっては、これで一件落着ではない。
 彼らには、彼らでやるべきこことがある。
 そこに、自分はいるべきではない。それなら、監禁生活で疲れ果てただろう頼子を邸に戻すべきだ。
 そして、私のやるべきことを果たしに、戻らなければならない。
 澪は頼子を促し、少々強引に背負った。軽々と立ち上がり、和泉達に笑いかける。


「それでは和泉様。ライコウ様。どうぞ、ご存分に」

「……ああ。気を遣ってくれてありがとう。頼子ちゃんも、巻き込んじゃってごめんね」

「いえ……あの、和泉様、」

「うん。大丈夫」


 言葉を遮り、和泉が言い切る。
 頼子は言葉を詰まらせ、小さく頷いた。

 澪は二人に会釈し、獄卒鬼が作ってくれた築地の穴から外に飛び出した。
 小走りに暗い道を走って頼子の邸を目指す。

 その途中で、


「……澪、大丈夫ですよね」

「……、ええ、あのお二人ですから……きっと」


 頼子は、「きっと大丈夫ですよね」と自身に確かめるように何度も何度も繰り返した。



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