カラ、カラ、と音がする。
 艶めかしく蠢き赤い玉を転がす舌が、薄い唇の隙間から見え隠れする。
 唇も、狂気を宿した双眼は笑みに歪んでいる。


「ほんとぉ〜に宮も生きてるなんてねぇ……悪運がお強いことで」

「……待ち伏せか」

「宮サマぁ……高貴なお方が他人の家に無断で侵入するのは感心しないなぁ。……ま、僕はわざわざ死にに来てくれて、とっても嬉しいけどね。今度はちゃ〜んと……僕の手で、真紅を散らせてやるよ」


 澪はひゅっと息を呑んだ頼子を背に庇い、身構えた。
 ああ、やっぱり待ち伏せをしていたのね。
 出てきたところを一網打尽――――なんて、効率がとても良いもの。

 和泉もさほど驚きは無く、小太刀を構えて彼の動向を注視していた。

 沙汰衆が一人、北狄。
 澪は頼子を物影に潜ませて、和泉の脇を通過しようとした。
 それを和泉が片手で制する。


「さすがに、俺の前には出ないで」


 苦笑混じりに言われ、頭を下げる。北狄に向き直ってじっと見つめた。


「こんばんは。……空也様。頼子様をお返しいただくと共に、お迎えに参りました。法子様がお待ちです」

「……法子?  だぁれだっけ、それ」

「お忘れですか? その鬼灯飴を今もなお舐めておられまするに……」


 否。彼は忘れていない。
 忘れる筈がない。
 彼にとって、彼女はとても大切な存在なのだから。彼女がそうであるように。
 澪は、諭すように穏やかに誘う。


「還りましょう」


 優しい声は、しかし強く拒絶される。苛立たしげな声で跳ね返されてしまった。


「五月蠅いなぁ……南蛮を殺しておいてよく言うよねぇ、化け物」

「それは……私の非です。まことに申し訳ございませんでした」


 神妙に深々と頭を下げ、謝罪する。

 北狄は鼻で一笑した。


「良ーい? お前は化け物なんだよ? 人間を食らった化け物が……僕に指図するんじゃないよ」


 言葉半ばで笑みが消える。
 彼が片手を挙げた瞬間――――。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ


「!」


――――その歌は、聞こえてきた。



‡‡‡




 澪は目を剥いた。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを


 嘘……またなの?

 澪は咄嗟に耳を塞いだ。
 脳がぐらぐら揺れる。心臓が騒ぎ立てる。
 あの時と同じように――――胸の奥に閉じ込めた、澱んだ激情が鍵を壊して出てこようとしている。
 いけない。
 また、繰り返してしまう。

 その前に、

 その前に、

 その前に!


「この歌……何処から……?」


 和泉が怪訝そうに呟く。彼らにも、この歌は聞こえているようだ。あの時、ライコウには聞こえなかったのに……どうしてだろう。
 されど、澪が自分から距離を取ったのに手を伸ばし、こちらの顔を見てぎょっとする。
 逃げようとするとその前に肩を掴まれ引き寄せられる。

 身体が当たったのは暖かい、《肉》だ。
 澪はいけない、とひゅっと息を吸い和泉の手から小太刀を奪い取った。
 捕まる前にと腕を逃れ耳を片手で掴み、


 斬り落とす。


「澪!?」

「あっは、斬り落としちゃった! この化け物、自分で耳、斬り落としちゃったぁ!! あっははは! 懐かしい故郷の歌なんだよ? しぃ〜っかり聴いてあげなくちゃ駄目じゃないかぁ」

「……っ」


 もう片方も斬り落とした。
 耳介を失えば、聞こえなくなる。
 そう信じた。

 けれども。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ


 聞こえる。
 まだ、聞こえる。
 どうして!
 もう、聞きたくないのに! 戻りたくないのに!
 意味も無く斬り落とされただけの、己の耳介を見下ろす。
 からりと小太刀を取り落とすと、横合いから取り上げられ抱き寄せられた。


「ぁ……あ゛あ……っ」

「澪! しっかりするんだ、澪!!」


 和泉の声は、聞こえづらいのに。
 忌まわしい歌だけはこんなにもはっきりと聞こえてくる。

 だらだらと血を流す耳殻があった場所、そこに開いた耳孔を塞ごうと手を押しつけると、和泉はその手を剥がす。

 駄目なのだ。
 この歌を聴いたら、私、は。

 この場にいる人達を。

 食べてしまう。

 離れないといけない。
 南蛮の時のようなことはしたくない。
 身体が熱くなっていくのは、理性と激情が拮抗しているから。だがそれももうじき理性が負けてしまうだろう。
 勝ち方が、分からないから。


「……駄目……離れない、と……」

「澪?」

「そうそう、早く、離れないとねぇ? そのままだと、大事な大事な宮サマを食べちゃうよ、化け物?」


 そう。
 だから、駄目なのだ。
 歌が聞こえる。
 歌が時を戻してしまう。
 私を昔に戻してしまう。
 だから、彼から逃れないと――――。


 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つず――――。


「っ、あ……」

「何……?」


 歌が、途切れた。
 途端に激情を押し込んだ理性が勝った。
 澪は半ば茫然としながら耳を塞ぐ血塗れの手を離した。

 聞こえない。
 聞こえなくなった。
 どうして……。


「……間に合ったか……」

「お前……!?」

「ライコウ……?」


 聞こえづらくとも、その名前は辛うじて聞き取れた。
 側に片膝をついたのは、顔を露わにしたライコウだ。
 彼は決して和泉の方を見ようとはせず、澪の頭を撫でて耳を拾い上げた。


「自ら耳を斬り落とすことも無かったろうに……」

「ライ、コウ……さま」

「……」


 ライコウは耳殻を慎重に切断面に当てた。
 和泉に目配せして彼に押さえさせるとすぐに双剣を握って北狄に向き直る。


「もう、あの歌が聞こえることは無い。奴の相手は拙者が」

「……、……ああ、任せた」


 和泉は表情を堅くしてライコウを一瞥、目を伏せて澪を見下ろした。

 一瞬だけ、安堵と、不安が双眸によぎったように、澪には思えた。



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