壱
「ここです」
澪の案内で訪れた右京の片隅に放置された廃屋は、物々しい空気に覆われ、築地の側にいるだけでも重苦しかった。
見張りのアヤカシは澪が引き寄せて、影を通して黄泉へと落とした。
打ち捨てられてどれくらいの時が流れているのか――――恐らくは、澪が鳥達と戯れ、ライコウに首を跳ねられた邸跡より長い年月は経っているだろう。
簀の子は板が剥がれかけ、欄干も崩れてしまっていた。蔀戸も格子がぼろぼろ、妻戸が外れかけ風を受けてきいきいと悲鳴を上げている。
緊張と警戒で気が張り詰めている所為だろうか。羽虫が横切る音にすら敏感に反応してしまう。
南庭の茂みの中に身を隠した和泉は澪を背後に追いやって、邸の中を窺った。
北狄の姿は無い。だが、中に潜んでいる可能性はあった。
どちらかが囮となっておびき寄せる策も考えたが――――和泉に却下された。ライコウもいるかもしれない以上、二人で臨まなければ頼子の救出は難しい。
和泉が二人の相手を引き受け、澪が迅速に動いて頼子を救出する。それが、二人に見つかった時、今の二人に出来る最善策だ。
一人で臨むには、あまりに危険な場所だった。
「良いかい、澪。君はライコウと北狄の相手はせずに、頼子ちゃんを連れて逃げるんだ。俺も、頃合いを見て合流する」
「分かりました」
茂みの中を移動し、邸に近付く。途中アヤカシに襲われるも、澪の力で以(もっ)て沈静化した。
和泉の後ろにぴったりとつき、澪は頼子の姿を捜す。奥にいるのだと推測されるが、簡単には進めない。朽ちて落ちてしまいような簀の子ばかりで、思うような道を行けないのだ。
その間に北狄達に遭遇したら――――そう危惧するが、付近に北狄の気配は感じられない。もしかすると、頼子の監禁部屋に誘引してそこで始末……そう算段しているのかもしれない。残虐なことを好む北狄のことだ、頼子の絶望する顔を楽しみたいと思っても不思議は無い。……彼の本来の姿を考えれば、頼子相手にそんなことは絶対にしないと、そう思いたいけれど。
「和泉様。待ち伏せの可能性も」
「ああ。……そうなったら、澪に壁を壊してもらって、逃げようか」
「分かりました」
茶化して言う和泉に、笑顔で返す。実際、朽ちた壁を壊すくらい造作も無かった。
一層警戒を強め、先に進む。
北の渡殿に至った時、澪は和泉の袖を引いて先行した。
見つけた――――無言の報告に和泉は何も言わずに従う。
閉じられた妻戸を指差し、和泉に声を出すように身振りで頼んだ。
和泉は刀を抜き、そうっと妻戸に歩み寄る。
「……頼子ちゃん? 頼子ちゃん、いる?」
反応はやや遅れて返ってきた。
『……その声は……和泉様!』
和泉は妻戸を開け放って中に飛び込んだ。澪も、それに続く。
部屋の奥に座っていたのは、記憶に新しい姿とはかけ離れた汚れたそれだった。
美しく仕立て上げられた着物も、椿油で艶めいた緑の黒髪も、埃や土で汚し、顔も以前のような愛らしさは無く、今にも儚く散ってしまいそうな悲壮な色が濃く現れていた。
泣きそうに潤んだ目で和泉を見上げ、ほう、と震える吐息をこぼす。
「和泉、様……澪」
「……待たせちゃったね? 頼子ちゃん」
頼子は唇を戦慄(わなな)かせた。澪が歩み寄って側に屈み込むと、肩を落として長々と吐息をこぼした。
精神的に憔悴しているが彼女に怪我は無いようだ。余程、怖かったのだろう。元々小柄だが、もっともっと小さく見える。
「わ、わたくし、わたくしは……」
「もう、大丈夫ですよ。頼子様」
「え……?」
澪はきょとんとする頼子に微笑みかけ、縄で縛られた腕を解放してやる。頼子に気を遣ったのか、拘束は思ったよりも弱かった。
「辛かっただろう? 怪我とかは無いかい?」
「え、あ……っ、和泉様!」
澪から和泉に意識を移した頼子ははっとした。みるみる青ざめた。ぎゅっと目を瞑り、その場に平伏した。
これに、和泉は驚く。
「どうしたんだい? 頼子ちゃん……?」
「わ、わたくし……、わたくし……、なんてことを……」
鈴の声は慚愧(ざんき)に震え、涙混じりに、叫ぶように言葉を紡ぐ。
「お兄様は、わたくしのために、あなた様を裏切ったのです! わたくしを殺されたくなければ……三種の神器を持ってくるようにと……!」
和泉は一呼吸置いて、微笑む。
身を屈めて彼女の細い肩にそっと手を添えた。
「大丈夫だよ、頼子ちゃん。……だいたい、わかってるから。もちろん、ライコウがキミのことをとても大切に思っていることも、ね?」
「和泉、様……」
「まぁ、ここまで甘いのも困りものだけどね? これからの仕事に支障が出たら大変だ」
おどけて笑ってみせる和泉の言葉に、その奥に込められた意味に、頼子は感じ入ったように瞳を一層潤ませ唇を引き結んだ。
息を詰まらせ、やや崩れた笑みを浮かべる。ぽろりと涙がこぼれた。
「嫌ですわ、和泉様ったら」
「本当のことだよ。ねぇ、澪?」
「ライコウ様は、頼子様のことが、本当に大好きなようですから。そのお気持ちは、私にも理解出来ます」
言いながら、澪が袖でそっと拭ってやった。
脳裏に、妹と小舟の姿を思い浮かべながら。
頼子は澪をの顔を見つめ、そっと頬に手を添えた。
「あの……失礼ですけれど、あなたは澪……ですよね」
「ええ。今の私が、本来の私です。今までは故あって、理性の無い状態でおりました。混乱させてしまい、まことに申し訳ございません」
澪は頼子の上体を起こさせ、外の様子を確認して妻戸を閉めた。
ここまで放置されると、却(かえ)って不穏だ。
気味の悪い感覚に思わず己の身体を抱き締めた。
和泉の横に戻ると、頼子は居住まいを正し、口を開く。
「和泉様、澪。お兄様には……、蟲(むし)がつけられています」
「蟲……ですか」
蟲は式神よりは機能が劣る。
だが、監視程度の役には立つ。式神よりも劣るので気配も非常に微弱で、故に澪も気付けなかった。機会は沢山あったのにも関わらず。
大事なことに気付けなかった自分を恥じて吐息を漏らすと、和泉に頭を撫でられた。見上げると、微笑まれる。気にするなと慰められているようで、澪は苦笑して頭を下げた。
「沙汰衆を裏切るような行動をした場合、わたくしをすぐに殺すと。そうお兄様を脅すための措置ですわ」
和泉は腕を組み、一つ頷いた。
「ようやくわかったよ。だから、誰にも裏切った理由を話せなかったって、ことね」
腕を解いて両手を軽く挙げ、肩をすくめる。
「まぁ、事情はわかったし、とりあえず、一度、晴明の屋敷へ戻ろう。まずは、頼子ちゃんの身の安全を確保しないとね。いつまでもここにはいられない。澪」
「はい」
ライコウをどうこうするのはその後でも良い。
頼子の身の安全を最優先させなければ。
澪は和泉と頼子に頭を下げ、構造を考えながら壁に近付いた。数歩退がり、床を蹴る。勢いよくぶつかって壁を破壊、瓦礫諸共飛び出そうとしたのを和泉に引き戻されて事無きを得た。
「さあ、戻ろうか」
「頼子様。私の側から離れられませぬよう」
「はい」
澪の手を取り、頼子は立ち上がる。
和泉を先頭に外へと飛び出した、その時だ。
「やっと、出てきてくれた」
ねっとりと、声が絡みついた。
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