源信はひとまず、邸や和泉のことを壱号達に任せ澪を着替えさせようと学び屋に戻った。
 手早く済ませ彼女を伴い情報集めに向かおうとしたところ、澪がふと源信から離れ市の雑踏に紛れ込んだ。

 何とか追いかけて至るは幾重もの人集り。その奥には、真新しい立て札があった。
 それを見た瞬間、ぞわりと予感めいた不快感に胸が冷たくなった。
 心中で否定しようとした源信自身を否定するように、民達の声が聞こえてくる。


「このお触れ、朝廷からつぅ話だけどよ」

「ああ、それか? 『三種の神器を喪失した咎により、天照皇子は廃太子とする』だろ」


 どくりと心臓が跳ね上がる。
 遠目から見える文字の羅列。その上に添えられた絵は――――人間の顔のようだ。恐らくは天照皇子、和泉の。


「三種の神器って、この都を守るために必要なものなんでしょう? それをなくすなんて……天照皇子様ともあろうお人がどうなのかしらねぇ」

「どうせ貴族様は、俺達下々のことなんて、死のうが生きようがどうでもいいのさ」

「大切なのはてめぇの命だけ、ってね。やんごとなき身分のお方は、み〜んな腐った心をもってやがんのさ。都が滅びようがしったこっちゃねぇ」


 口々に、不信感にまみれた言葉が放たれる。

 ……政争だ。
 こんな時に、こんな下らないことを……。
 確かに、腐りきった貴族は多い。それ故に、民も貴族に対して良い顔はしないのだ。和泉のように真摯に民を思い、守り向き合おうとする者も、同じ穴の狢、汚物のように見られてしまう。
 源信は嫌悪感に眉根を寄せずにはいられなかった。

 だが、それは澪も同じことだ。
 源信は感情のままに動く状態にある澪を捕まえようと手を伸ばした。

 澪の動きは、それよりも速かった。
 源信の手を逃れ人混みの中に身を投じてしまった。呼んでも彼女は止まらない。
 自らも追おうとするも、小柄な澪のように上手くはいかず、思うように前へ進むことが出来なかった。

 それから遅れて、奥から板の折れる音と驚きの声が上がる。


「澪……!」


 朝廷からのお触れを壊すことは罪だ。
 検非違使(けびいし)に知らされて捕まったりしたら大変――――その言葉で済むかも分からない。
 民が叱りつけるのを意に介した風も無く、澪は近くの建物の屋根に飛び上がり、その場から逃げ出した。彼女の健脚に、誰もが舌を巻く。

 源信は人集りの奥を一瞥し、澪を追いかけた。

 されども源信からも逃げるように、澪はぐんぐん速度を上げてしまう。

 そして、見失ってしまった。
 十字路に立って周囲の建物の上を捜して見るが、その姿は忽然と消えていた。

 源信は片手で顔を覆い、長々と嘆息した。



‡‡‡




 日が暮れていく。
 和泉は簀の子に座って赤らんでいく空を何をするでもなく見上げていた。

 ゆっくりと雲が流れていく。緩慢に形を変え、或いは分裂する。

 今頃、源信は外を走り回っているのだろう。壱号達はここに残っているようだが、珍しく静かだ。和泉に近付いてくる様子も無い。
 誰からも完全に放り出されたような状況下、自暴自棄になっても虚しかった。

 加えて、先程築地の向こうから聞こえてきた話も、容赦なく和泉を責め立てた。


 『廃太子』


 とうとう、自分は朝廷にまで見捨てられたのだ。
 当然だ。自分は逃げたのだから。
 身分も失い、友も失った自分に、一体何の価値があるだろうか。
 もう、都の誰もが失望したことだろう。帰れない。何処にも。帰れる場所を、失ってしまった。

 これは咎なのだろう。
 弱い自分へに向けられた――――。

 烏帽子を取り、意味も無くいじる。
 そのままぼんやりと過ごしていると、ふと簀の子を歩いてくる足音が聞こえた。
 どうせ壱号だろうと俯いたままでいると、突如に頭上から大量の物が雪崩のように降りかかってきた。

 膝の上に残ったそれは、折鶴だ。
 様々な形、色、巧拙のそれらは、和泉も馴染みのある物。

 驚いて見上げると、澪が無表情に立っていた。
 それに、ほんの少しだけ違和感があったけれど、久し振りに獣に戻っているからだとした。
 澪は簀の子に落ちたうち一つを取り上げると、慎重に、丁寧に開いて、その中身を和泉に見せた。

 拙(つたな)い文字に、和泉は息を呑む。
 文字こそ下手だ。けれど、深くて心地良い温かみが溢れ出る。
 『また、いっしょにつるをおろうね』――――たった、それだけの言葉なのに。

 和泉は手に当たっていた折鶴を持った。開いて中身を確認する。それからも、一つ一つ中身を開いて文字を読んだ。
 ほとんどが和泉を励ましたり、和泉の身体を案じたり、和泉を遊びに誘ったり――――それら一つ一つに個々の深い思いやりが感じられた。

 一部には破けてしまった箇所があった。
 一部には黒ずんだ箇所があった。
 一部には血が付いている箇所があった。
 一部には折れ曲がってしまった箇所があった。

 どれもが、思いの丈を示すかのように、力強く折られていた。

 一体何処の誰が――――なんて、考えなくても分かる。
 彼と一緒に折鶴を折っていた子供達それぞれの顔が、笑顔が、脳裏に浮かぶ。
 源信に学ぶ子供達が文字を教え合う光景も目に浮かんだ。

 ひゅっと息を吸い、澪を見上げる。
 されど、そこに彼女の姿は無かった。
 彼女の立っていた場所に、もう一つ、一番拙い折鶴が落ちているのみ。

 和泉は、開いた紙束を脇に置いて、その折鶴に手を伸ばした。

 彼女は何処に――――周囲を見渡して、はっと見上げる。
 屋根から下がった二本の棒。足だ。
 澪は、屋根の上に移動していた。時折ぶらぶらと揺らしているだけで、和泉に寄ろうとも、そこから離れようともしない。

 まるで、待っているみたいだ。
 和泉が全ての折鶴に込められた思いを受け取るのを。

 和泉は未だ残る大量の折鶴を見渡し、胸が震えた。
 唇を噛み締め、また一つ、折鶴を取った。

 一番拙い折鶴は、また脇に置く。

 その折鶴だけは、最後に開きたかった。



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