伍
どたどたと騒々しい足音に、僅かな仮眠を取っていた源信は瞼を上げた。
狼狽えた言葉も聞こえる。金波銀波の声だ。澪様が、やっべえ、と二人共泣きそうだ。
不穏なそれに源信は簀の子に出た。
「源信様! 源信様、いずこに!!」
「こちらにおりますよ。どうかしましたか」
角から大わらわで飛び出してきた金波は、泣きそうな顔をくしゃりと歪めた。
駆け寄ってくる金波の後ろから銀波も現れる。彼は澪の手を引いていた。
源信は、あっと声を上げた。
「澪……もしや」
金波は重々しく頷いた。
銀波に手を引かれている澪は、己の袖をもぐもぐと噛んでいた。
そこに、理知的な光は宿っていない。
源信は金波を見やって説明を求めた。
「……どうやら、澪様の本体が何かしら損傷を受けたようで」
「本体?」
「詳しい話は、中でします」
金波は澪を見やり、痛ましげに目を細めた。
澪は、こてんと首を傾けた。
「きんぱー?」
「……澪様」
‡‡‡
「――――なるほど。つまり、澪の本体が、今、澪の妹と共に黄泉の扉を守護している、と。その本体が何かしらの攻撃を受け、その衝撃が澪の魂にも至り自己修復の為に一時的に理性が眠り込んでいるということですね」
源信は長々と吐息を漏らした。
澪の今の器は、澪自身が大陸の仙人にせがんで作ってもらった物だという。本体は別の、彼女らが大事に守っていた《小舟(こふね)》の肉体となっているそうだ。
だから仕事寮が襲撃された時、澪はああまで必死だったのだろう。琥珀は、澪が小舟に与えたものであると推測される。
その小舟が、今回の騒動の黒幕に害された。きっと、魂が回復した時、あの時のように取り乱してしまうだろう。
せめてもの幸いは小舟がまだ生存していること。澪の魂が消失してないのは、まだ小舟が生きているからだ。
小舟が消失すればその瞬間に澪も消失してしまう。小舟と澪の存在は、繋がっているのだ。
「では、いつ澪が消失するかも分からないのですね」
「いえ……小舟も、自分が倒れれば澪様も消えてしまうと分かっていますから、無茶な真似はしません」
「……安全なところに逃げ込んでいると良いですね」
「俺は、そう信じています。あの子は、俺から見ても賢い子なんですよ。俺達が教えたことも、すぐに覚えてしまうんです」
まるで兄のように慈愛に満ちた顔だが、心無し、残念そうに見える。
「金波」
「……俺達は、皆一度は死んでいるんです。小舟も元は赤子で、乳離れもしないうちに殺されました。あんなに賢い子が生き残っていたら――――もしかすると、功を上げて名を残していたかもしれません」
あの子のことを思うと、それが、とても口惜しいんです。
苦笑混じりに肩をすくめ、金波は立ち上がった。
「俺達は取り敢えず黄泉の扉に戻ろうかと思います。小舟の様子だけでも確認しておかなければ」
「……危険ですよ」
「いえ、俺達以上に小舟や標(しるべ)様――――澪様の妹君が危険です。俺達は澪様だけでなく、あの二人も守る役目を負っていますから。澪様のことは、あなた達にお願い致します。俺達が戻らずとも、捨て置き下さい」
金波は銀波を振り返り、深く頷く。
銀波もそれに応え澪に源信を指差して見せた。
されど二人の様子に何かを感じ取ったのだろう。
彼女は銀波の袖を掴んでじっと見上げた。
源信が呼んで言い諭すと、ちょっとだけ不安そうに手を離す。
金波銀波は鵺となって急ぎ邸を出た。
追いかけていきそうな澪を宥め、そっと頭を撫でてやる。澪は拗ねたように袖をかじった。
「澪。暫くはここでじっとしていなさい」
「きんぱ、ぎんぱー」
「大丈夫です。あのお二人なら、ちゃんと生きて元気な姿を見せて下さいますよ」
澪は無垢な目を瞬かせ源信を見上げた。さほど昔ではない筈なのに、獣のような姿がとても懐かしい。
だが、悠長に懐かしがっていられる状況ではない。
源信は築地を見上げ、吐息を漏らした。
「この子を連れて、外に行く訳にもいきませんね。宮様に預けるのも、少々不安が残ります」
さあ、どうしましょうか。
澪を見下ろし、苦笑を浮かべた。
澪は不思議そうに瞬くだけである。
‡‡‡
早朝になり、澪がようやっと目覚めたと思うと、様子が一変していた。
戻っていたのだ。
本来の自我に戻る前の、あの無垢な獣のような彼女に。
瞬間よぎったのは自分の言葉。
『獣のままなら、こんな風に考える必要も無かったのに』 あの言葉の所為で、彼女は理性が消えてしまったのではないか。
ぞわりと、恐怖と罪悪感に全身から血の気が引いた。
すぐに外に控えていた金波銀波を呼び、彼らに澪を見せた。
その時の、二人の動揺は予想以上に大きく、二人共血の気を失った。
すぐに澪を連れ出して源信のもとへ急行する。
それを見送るしか出来なかった和泉は、一瞬振り返った澪の目に、胸が抉られる思いだった。
俺の所為なのか、違う異変が澪に降りかかったのか。
しんと静まりかえった邸の沈黙が、和泉にはとても重苦しい。
だが、出ようとも思えなかった。外を出るには、あまりに身体が重かった。
「澪……」
片手で顔を覆い、呻く。
望んだのは自分だ。
でも、こんな形ではなかった。
だからだろう。胸が息も出来ない程に、とても苦しかった――――……。
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