肆
彩雪は呆気に取られた。
晴明を害し、彩雪をここに縛り付けた彼ががかけたのは、案じるような優しい言葉であった。
どうしてそんな言葉を、自分にかけるのか。
分からずに困惑していると、道満はゆっくりと向き直った。
「手荒な手法ですまぬと、東夷が言っていた」
「東夷……さんが……」
でもそれは彼が指示したことではないか。
勾玉を奪う為に――――。
彩雪は唇を引き結んできっと睨みつけた。
この人は敵だ。敵なんだ。案じる言葉をかけてきても、敵であるのだ。
自身に言い聞かせる。
……されど。
「……怪我は無いようだな。ならばいい」
一瞬だけ、笑ったように見えた。
徐(おもむろ)に背を向け、大岩に向き直った。
かわされた。どうして――――どうして、敵にそんな言葉をかけるの、道満さん。
彼の真意が分からない。
彩雪は沈黙した。
彼も何も発しない。
聞きたいこと――――いや、聞かなきゃいけないことが沢山ある。
なぜ、黄泉の扉を開こうとするのか。
なぜ、わたしをここに連れてきたのか。
晴明の安否も確かめたい。
それにあの鬼のことも気になる。
水に濡れて動かぬ鬼を一瞥し、彩雪は道満の背に向けて言を発した。緊張に乾いた声は掠れ、道満の名前すら満足に呼べなかった。
しかし道満は彩雪を振り返らずに天を振り仰ぐ。
「月が……」
「え?」
道満につられて顔を上向ける。
生々しく光を反射する岩の天井、そこには穴は空いていない。月なんて見える筈がない。
でも、漠然と道満の言わんとしていることを察していた。
赤い月だ。
赤に浸食されていた月。
赤い月蝕――――きっと、もうすぐ、完全になるんだ。
その時黄泉の扉は開かれる。
死者と生者の世界が入れ替わる。
それを、道満は待っている。
道満は歩き出した。
黒の衣が赤く照らされ、ひらりひらりと翻る。
悠然と、異質なる大岩へ、歩み寄っていく。
大岩の前で立ち止まるった彼は道満は懐から何かを取り出した。
彩雪は目を細めて目を凝らした。
磨き抜かれた黒い石のような大二十面体のそれに、彩雪は我知らず呟く。
「月齢盤……?」
月の満ち欠けを示す、奇妙な形状のそれ。
内側から赤い光を放ち道満の左掌の上でくるくると回っている。
それが一瞬動きを止めたその刹那、大岩が鳴動を始めた。
同時に鬼がおぞましい雄叫びを上げて身を起こす。よろめき倒れるも、再び起き上がって道満に襲いかかった。長いかいなを振りかぶり――――薙ぐ。凄まじい轟風が彩雪の身体を容赦なく殴りつけた。
道満はひらりとかわし、右手を鬼に向けて突き出した。
断末魔。
鬼は頭を抱えて苦悶に身を捩った。
断末魔は彩雪の身体をびりびりと痺れさせた。ぱらぱらと降ってくるのは、振動に削れた壁の欠片だ。一瞬この空間が崩れてしまうのではないかと背筋が凍った。
「黙っていろ。……オレはお前を苦しめたい訳ではない。ただ、澪標を消したいだけだ。お前の敵ではない――――と、言っても、お前にとっては変わらぬか。あれとお前が繋がっている故に死は同時に訪れる」
「道満さん……?」
彩雪にかけたような、優しい言葉。
えっとなって道満を見やると、彼はその場にうずくまった鬼に恐れもなく歩み寄り、頭をそうっと撫でた。
すると、鬼の身体が傾ぐ。
水の中に沈み、微動だにしなくなる。
けれども縋るように、鬼は初めて言葉を発した。
『……みお……しるべ……』
「えっ?」
みお――――澪?
思わぬ人名に彩雪はぎょっとした。
あの鬼……今、澪って言った?
と、いうことは。
まさかあの鬼は……。
鬼を凝視する彩雪に、元の位置に戻ってきた道満が声をかけた。
「……あの小鬼が気になるか」
「こ、おに……?」
「澪標(みおつくし)が守る哀れな赤子だ。これを殺せば……澪は消失する。これが消えれば澪が消失したという証左」
「消失――――」
その言葉にぞっとした。
同時に、また疑問が去来する。
あれが澪の村で狂的に信仰されていた『鬼様』であることは分かった。
でもどうして、澪とその双子の妹が面倒を見ているの? どうして澪とこの鬼が繋がっているの?
それに、哀れな『赤子』って――――。
「どういう意味……?」
「……深くは、知らぬ方が良い。知ったとて詮無きことだ」
道満はそれ以上は語らず、大岩に向き直った。
月齢盤の光に呼応するかの如く、地面が鳴動し始める。
大岩の根本にうっすらと赤い光が不可思議な紋様を描き始めた。
儀式の際に晴明の部屋で見たものとは違うようだ。あちらは清廉としていた。こちらは、とても禍々しい。見ているだけで寒気がする。
徐々にはっきりと浮かび上がる円陣に、道満の掌の上に浮く月齢盤も赤い光を強めていった。
悪寒が止まらない。
なんて、不吉な光――――。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
聞こえる、感じる、大岩の脈動。
確かな蠢きに彩雪は冷や汗を流した。
……駄目、だ。
駄目駄目駄目、駄目!
このまま見ていてはいけない。
このままでは――――きっと、儀式が成されてしまう!
彩雪は腹に力を込めて叫ぶように道満を呼んだ。
道満が、緩慢にこちらを肩越しに振り返った。
無言。向けられた瞳の冷たさに息を呑む。
鼻白んで言葉を失いかけた自身を必死に叱咤して頭を回転させた。
「せ……晴明様は、どうしたんですか!」
「……人ならば、死ぬだろうな。だが――――狐は、あれくらいでは死なぬ」
その言葉に、ほんの少しだけ安堵する。
「じゃ、じゃあ、なんでこんなことするんですか」
「こんなこと、とは?」
射抜かれ、言葉に詰まる。
感情が無い。
さっきとは大違いだ。
「ええと、だから……勾玉を奪ったり、黄泉の扉を開こうとしたりです!」
「……勾玉は、儀式に必要だから手に入れた。黄泉の扉を開くのは、それがオレの望みだからだ」
「望みって……生者と死者の世界が逆転するんですよ!?」
「そのために、オレは扉を開く」
だから、どうして扉を開くのか、その真意を知りたいのに!
どうやって問いかけようかと考えていると、道満は大岩に向き直った。
ああ、駄目だった。どうしよう。止めないと、でもどうしたら――――。
「……そう、だ」
――――ふと、思い出したのは今まで忘却の縁に放り込まれていた記憶。
いつだっただろう。あの夢を見たのは。
思い出せと言わんばかりに脳裏をよぎったそれに、一瞬だけ目の前が暗くなった。
あれは――――あの二人は……。
『彼を……助けて……』 いつだったか、あの姿を見たのは。
古(いにしえ)の装束姿の、儚げな愛らしい人。
彼女を姫と呼び、悲痛に慟哭する男の人。
彼岸花の咲き誇る草原で、男は命の失せた彼女を抱き締めていた。泣いても泣いても彼女は還らない。失われた命は戻ってこない。
深い悲しみと、たぎる憎しみを持て余し、ただただ泣き叫ぶしか出来なかった、男。
そうだ、彼は――――彼なのだ。
姿こそ違う。
でもその悲しい悲壮な後ろ姿は同じ。
彼は、道満さんなのだ。
心の奥底で、彩雪は確信する。
同時に、彩雪はまた大きく口を開いた――――……。
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