彩雪は呆気に取られた。
 晴明を害し、彩雪をここに縛り付けた彼ががかけたのは、案じるような優しい言葉であった。

 どうしてそんな言葉を、自分にかけるのか。
 分からずに困惑していると、道満はゆっくりと向き直った。


「手荒な手法ですまぬと、東夷が言っていた」

「東夷……さんが……」


 でもそれは彼が指示したことではないか。
 勾玉を奪う為に――――。
 彩雪は唇を引き結んできっと睨みつけた。
 この人は敵だ。敵なんだ。案じる言葉をかけてきても、敵であるのだ。
 自身に言い聞かせる。

 ……されど。


「……怪我は無いようだな。ならばいい」


 一瞬だけ、笑ったように見えた。
 徐(おもむろ)に背を向け、大岩に向き直った。
 かわされた。どうして――――どうして、敵にそんな言葉をかけるの、道満さん。
 彼の真意が分からない。

 彩雪は沈黙した。
 彼も何も発しない。
 聞きたいこと――――いや、聞かなきゃいけないことが沢山ある。

 なぜ、黄泉の扉を開こうとするのか。
 なぜ、わたしをここに連れてきたのか。

 晴明の安否も確かめたい。
 それにあの鬼のことも気になる。
 水に濡れて動かぬ鬼を一瞥し、彩雪は道満の背に向けて言を発した。緊張に乾いた声は掠れ、道満の名前すら満足に呼べなかった。
 しかし道満は彩雪を振り返らずに天を振り仰ぐ。


「月が……」

「え?」


 道満につられて顔を上向ける。
 生々しく光を反射する岩の天井、そこには穴は空いていない。月なんて見える筈がない。
 でも、漠然と道満の言わんとしていることを察していた。
 赤い月だ。
 赤に浸食されていた月。

 赤い月蝕――――きっと、もうすぐ、完全になるんだ。

 その時黄泉の扉は開かれる。
 死者と生者の世界が入れ替わる。
 それを、道満は待っている。

 道満は歩き出した。
 黒の衣が赤く照らされ、ひらりひらりと翻る。
 悠然と、異質なる大岩へ、歩み寄っていく。
 大岩の前で立ち止まるった彼は道満は懐から何かを取り出した。

 彩雪は目を細めて目を凝らした。
 磨き抜かれた黒い石のような大二十面体のそれに、彩雪は我知らず呟く。


「月齢盤……?」


 月の満ち欠けを示す、奇妙な形状のそれ。
 内側から赤い光を放ち道満の左掌の上でくるくると回っている。

 それが一瞬動きを止めたその刹那、大岩が鳴動を始めた。

 同時に鬼がおぞましい雄叫びを上げて身を起こす。よろめき倒れるも、再び起き上がって道満に襲いかかった。長いかいなを振りかぶり――――薙ぐ。凄まじい轟風が彩雪の身体を容赦なく殴りつけた。

 道満はひらりとかわし、右手を鬼に向けて突き出した。

 断末魔。
 鬼は頭を抱えて苦悶に身を捩った。
 断末魔は彩雪の身体をびりびりと痺れさせた。ぱらぱらと降ってくるのは、振動に削れた壁の欠片だ。一瞬この空間が崩れてしまうのではないかと背筋が凍った。


「黙っていろ。……オレはお前を苦しめたい訳ではない。ただ、澪標を消したいだけだ。お前の敵ではない――――と、言っても、お前にとっては変わらぬか。あれとお前が繋がっている故に死は同時に訪れる」

「道満さん……?」


 彩雪にかけたような、優しい言葉。
 えっとなって道満を見やると、彼はその場にうずくまった鬼に恐れもなく歩み寄り、頭をそうっと撫でた。
 すると、鬼の身体が傾ぐ。
 水の中に沈み、微動だにしなくなる。
 けれども縋るように、鬼は初めて言葉を発した。


『……みお……しるべ……』

「えっ?」


 みお――――澪?
 思わぬ人名に彩雪はぎょっとした。
 あの鬼……今、澪って言った?

 と、いうことは。
 まさかあの鬼は……。
 鬼を凝視する彩雪に、元の位置に戻ってきた道満が声をかけた。


「……あの小鬼が気になるか」

「こ、おに……?」

「澪標(みおつくし)が守る哀れな赤子だ。これを殺せば……澪は消失する。これが消えれば澪が消失したという証左」

「消失――――」


 その言葉にぞっとした。
 同時に、また疑問が去来する。
 あれが澪の村で狂的に信仰されていた『鬼様』であることは分かった。
 でもどうして、澪とその双子の妹が面倒を見ているの? どうして澪とこの鬼が繋がっているの?
 それに、哀れな『赤子』って――――。


「どういう意味……?」

「……深くは、知らぬ方が良い。知ったとて詮無きことだ」


 道満はそれ以上は語らず、大岩に向き直った。
 月齢盤の光に呼応するかの如く、地面が鳴動し始める。
 大岩の根本にうっすらと赤い光が不可思議な紋様を描き始めた。

 儀式の際に晴明の部屋で見たものとは違うようだ。あちらは清廉としていた。こちらは、とても禍々しい。見ているだけで寒気がする。
 徐々にはっきりと浮かび上がる円陣に、道満の掌の上に浮く月齢盤も赤い光を強めていった。

 悪寒が止まらない。
 なんて、不吉な光――――。


 ドクン。

  ドクン。

   ドクン。


 聞こえる、感じる、大岩の脈動。
 確かな蠢きに彩雪は冷や汗を流した。

 ……駄目、だ。
 駄目駄目駄目、駄目!
 このまま見ていてはいけない。
 このままでは――――きっと、儀式が成されてしまう!
 彩雪は腹に力を込めて叫ぶように道満を呼んだ。

 道満が、緩慢にこちらを肩越しに振り返った。
 無言。向けられた瞳の冷たさに息を呑む。
 鼻白んで言葉を失いかけた自身を必死に叱咤して頭を回転させた。


「せ……晴明様は、どうしたんですか!」

「……人ならば、死ぬだろうな。だが――――狐は、あれくらいでは死なぬ」


 その言葉に、ほんの少しだけ安堵する。


「じゃ、じゃあ、なんでこんなことするんですか」

「こんなこと、とは?」


 射抜かれ、言葉に詰まる。
 感情が無い。
 さっきとは大違いだ。


「ええと、だから……勾玉を奪ったり、黄泉の扉を開こうとしたりです!」

「……勾玉は、儀式に必要だから手に入れた。黄泉の扉を開くのは、それがオレの望みだからだ」

「望みって……生者と死者の世界が逆転するんですよ!?」

「そのために、オレは扉を開く」


 だから、どうして扉を開くのか、その真意を知りたいのに!
 どうやって問いかけようかと考えていると、道満は大岩に向き直った。
 ああ、駄目だった。どうしよう。止めないと、でもどうしたら――――。


「……そう、だ」


――――ふと、思い出したのは今まで忘却の縁に放り込まれていた記憶。

 いつだっただろう。あの夢を見たのは。
 思い出せと言わんばかりに脳裏をよぎったそれに、一瞬だけ目の前が暗くなった。
 あれは――――あの二人は……。


『彼を……助けて……』


 いつだったか、あの姿を見たのは。
 古(いにしえ)の装束姿の、儚げな愛らしい人。

 彼女を姫と呼び、悲痛に慟哭する男の人。

 彼岸花の咲き誇る草原で、男は命の失せた彼女を抱き締めていた。泣いても泣いても彼女は還らない。失われた命は戻ってこない。
 深い悲しみと、たぎる憎しみを持て余し、ただただ泣き叫ぶしか出来なかった、男。


 そうだ、彼は――――彼なのだ。


 姿こそ違う。
 でもその悲しい悲壮な後ろ姿は同じ。
 彼は、道満さんなのだ。
 心の奥底で、彩雪は確信する。

 同時に、彩雪はまた大きく口を開いた――――……。



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