ゆっくりと、瞼を押し上げる。
 感じたのは突き刺すような寒さと――――自分に寄り添うごつごつと岩のように硬い温もりだ。
 どれくらい寝ていたのだろう。
 彩雪は湿っぽくて黴臭い空気を吸い込み、周囲を見渡した。

 目に付いたのは赤と黒。
 ずらりと並べられた灯台の火にごつごつとした岩肌は不気味に凹凸を浮かび上がらせ、赤みを帯びて何か大きな化け物の体内にいるのではないかと錯覚させる。
 その一角には木造の建物。内部から赤く発光しているかのようだ。

 整然と並んで揺らめく灯りの先には、巨(おお)きな岩が鎮座していた。
 地面に突き刺さり、そこから水を湧き上がらせている。湧いてくるのは水だけだろうか。見ていると心が並ぶ火のように不安定に揺らめきそうになった。
 まるでこの空間が、あの岩の為だけに存在しているかのような……そんな感じ。

 そのおどろしき威圧感を放つ岩だけは、この広く生々しくも見える空間の中で殊更異質だった。
 けれど何故だろう――――何処かで、あの岩と同じ気配を感じたような気がする。はて……何処で、だったか。

 いや、それよりも考えるべきは他にある。

 ここは――――どこ?
 いつの間にわたし、こんなところに……。
 身動ぎして、彩雪は自身の自由を拘束する物にようやっと気が付いた。そう思うと息苦しくなって、でも咽は押さえられない。拘束されているから。

 背中は冷たい岩。
 彩雪は縄で縛り付けられていた。


「なに、これ……」


 誰がこんなこと――――。
 考え、視線を巡らせた。

 そして、ぎょっとする。ひきつった悲鳴を上げた。

 何これ!?
 自身に寄り添う温かい物は、岩のようで岩ではなかった
 あの岩よりももっともっと巨きな……生き物。
 一見横になって眠る痩せた狼と思いきや、前足は異常に長く、鉤爪みたいな三本指の手がある。後ろ足は狼のそれだが、全身に毛は無い。干からびたように黒々としており、骨がぼこりと異様に浮き上がっていた。
 顔は……なるべくなら見たくないが、興味本位で見てしまう。

 息を呑んだ。

 やはり、干からびている。
 口から出た下は小魚の干物のようで、口内にも満足な水分が無いのだと見て取れる。
 鼻は無く、一般的な鼻のある場所に縦長の穴が二つ並んでいるのみだ。微かに収縮しているところを見ると、生きてはいるようだ。
 窪んだ大きな眼窩(がんか)には得体の知れぬ闇が広がっているようで、一瞬だけ目を逸らしてしまう。

 けれど、額の左右から上へと突き出した突起物に視線をやった。

 ……角?
 まるで角だ。
 鬼の、角。

 鬼?

 そう言えば鬼と言う言葉を最近聞いたような……。


「……まさか、ね」


 ……これが『鬼様』な訳ないか。
 だって、ここは澪の村じゃない。それに滅んだって聞いたし――――。


――――と、不意に。


 痩せぎすな鬼が身動ぎした。
 眼窩に赤い光が灯り、腕がかさかさと動き出す。

 彩雪はひきつった悲鳴を上げ、反射的に声を張り上げた。


「晴明様!! 晴明様……!!」


 口をついて出たのは、主の名前。
 そこで、彩雪の脳裏に記憶が蘇った。


「あ……」


 ……そうだ。
 わたし、荒れ屋にいたんだ。それから……それから……。


 東夷さんが現れて――――捕まって。


 助けてくれようと妖狐化した晴明様も、道満さんに、傷つけられて。
 血に沈んだ彼の白い肌を思い出すと、一瞬だけ晴明に葛葉が重なる。
 愛する息子を助ける為に命を擲(なげう)った愛情深い女性に。

 違う!
 そんなことは有り得ない。
 絶対に、晴明様は生きているんだから。
 でなければあの夢の説明がつかない。

 彩雪は唇を引き結んで周囲を見渡した。けれど体内のような空間に、求める姿は無い。
 それでも、晴明を呼んだ。
 自らにも触れる鬼が動いている恐怖もあった。晴明の生存を確信したい気持ちもあった。
 咽が嗄(か)れると分かっていても、彩雪は声を上げ続けた。

 されど。


「……呼んでも無駄だ」

「……!」


 醜い悲鳴。
 鬼だ。乾燥した口を大きく開き、どの生き物とも分からぬそれに、彩雪は身体をすくめた。なんて恐ろしい悲鳴だろう。人間を絞め殺したみたいにも思えるし、アヤカシの断末魔にも聞こえるし……赤ん坊のようにも聞こえてしまう。
 怖くて、気持ち悪くて――――悲しくて、放っておけなくて。

 鬼なのに、姿も気配も怖い鬼なのに。
 同時に、放っておけないと思ってしまう。
 まるで――――まるで、獣の澪を相手にしているみたいな、そんな感覚だ。

 岩と岩の隙間から現れたその人物は、鬼の首を掴むと軽々と持ち上げ薄く水の張った沢へと放り投げた。ばしゃん、と大きな水飛沫を立たせて鬼は転がる。

 彩雪は鬼から、影へと視線を移した。


――――綿みたいに真っ白な髪に、血のような瞳、壊死したみたいな黒い右腕……。
 黒い、右腕。
 晴明様の胸を貫いて、何本も赤い筋を作った、右腕。

 彩雪は、声を震わせた。


「道満……さん……」


 道満は、彩雪に視線を移した。
 感情など何も無い。まるで面その物であるかのように、匠に作り上げられた人形であるかのように……。
 血の瞳に射抜かれ、身体が強ばる。咽を鳴らし息を呑んだ。

 道満は瞬きをして、口を薄く開く――――。


「……怪我はないか?」


 彩雪は目を見開いて、顎を落とした。



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