弐
ふんわりと浮き上がったかと思えば、視界が変わった。
暗く寒い河原から馴染みある空間へ。
ただ、この空間に赤と蒼の玉が何処にも見えなかった。
当然だ。赤は自身に良く馴染み、蒼は、彼のもとへ戻った。
「晴明様……」
我知らず、呟く
虚ろなる世界は、むしろ親しみ深い。何度も何度も、来ているし、この世界が彼らと繋がっているからだ。
ぐるりと回り、離れた場所に黒い靄を見つける。
前にも見たそれは不安そうに揺らめく。
彩雪はあれ、と不思議に思う。
その靄は、晴明の記憶の欠片の姿だ。赤の玉を受け取る際に、霧散したと記憶している、
どうしてここに――――。
近付こうとすると、靄は逃げるように距離を取った。
けれど、逃すまいと近付く。
触ったら……やっぱり痛いよね。
でもそれは晴明様の痛みだ。
晴明様の辛い思いを共有する共有できるのならば――――怖くない。
彩雪は急いだ。逃げられる前に、白の世界を突っ切って靄に手を伸ばす。
されど触れる前に下ろした。
靄の中に何かが見える。目を凝らし、その光景を見た。
二人。男女が映っている。
晴明と葛葉だ。
靄の中の光景とあって、ゆらりゆらりと不安定に揺れる。
見たことがあるが、彩雪の記憶に残る光景とは少し異なっている。
今度こそ、彩雪は手を伸ばした。そこに、一切の躊躇が無かった。
だって、この記憶は大事な人のもの。大事な人の、辛い記憶。
触れた瞬間、駆け抜けた激痛に身体を折った。が、それでも腕は伸ばす。奥へ奥へと、記憶の欠片に突っ込む。
そして――――流れ込んできた。
母を殺した半狐の記憶。
彩雪はその姿を認めた。
……今なら分かる。
彼は暴走してしまったのだ。
葛葉は暴走した息子を止める為、己の所持した勾玉を渡そうとして、
息子の牙に殺された。
――――と、ふと。
声が、聞こえた。
葛葉の声だ。
「……かの時、あの子は、初めて妖狐としての力を使うた。けれど、強大な力を抑えきれず、理性を喰われてしもうた。……もしかなれば、半分人の血が混じっていたせいやもしれぬ。けれど、暴走の源はきっと――――」
何を信じていいか、わからなくなってしもうたから。
心の拠り所を――――失うたから。
寂しげに語る葛葉に、彩雪は心の中で彼女の言葉を反芻(はんすう)する。
心の拠り所……それは、一体。
「かの時は、勾玉を用いることで、力尽くで暴走を収めることはできたが……悲しみがあの子を……深い谷へと、突き落としてしもうた。愛する者を――――失うたから」
今の息子に必要なものは勾玉ではないと、彼女は言う。
本当に必要なものは別にある。
それは、何処か彩雪に縋るような響きがあった。
彩雪は葛葉を促すように呼ぶ。
が、急速に何かに引っ張られるような感覚がして、元いた白に引き戻されてしまう。後少しで、聞けたかもしれないのに。
彩雪は落胆する。
また靄が無いか周囲を見渡し、別なるものを見つけた。
……否、正確には『別なる』とは誤りかもしれない。
記憶の主だ。
彩雪が見てきた記憶の主が、そこに立っていた。
晴明は微動だにしない。よくよく見ると、その姿は透けていた。
もしかすると残留思念かもしれない。
記憶の欠片だけではなく、彼の感情も流れ込んできているのだろうか。
焦点の定まらぬ虚ろな瞳の彼は、彩雪に気付いた様子は無い。
彩雪は晴明をじっと見つめた。
すると、その薄い唇が、開かれた。
「……また、大切なものを傷付けた。傍に置いたせいで、余計な苦しみを与えた」
……母と同じように。
慚愧(ざんき)に沈むらしくない声に胸が締め付けられる。
それは誰のことを言っているのだろう。
……もしも、もしも。
もしもそれが自分であるのなら。
わたしは――――。
「これ以上、大切なものを失うのならば――――やはり誰も傍に置くまい。人として生き、だが人を傍に置かず、一人で生きて一人で死のう。大切なものを傷つける恐怖に比べれば。孤独など――――何を恐れることがあろうか……」
喪(うしな)うことへの、恐怖。
恐怖から選んだ孤独。
母の願いを受けて人として生きながら、他人を遠ざけて生きてきた。
人として生きるには長い時間を、ただ一人で。
それが、報いだと自分に科(か)して。
彩雪は、沈黙した。
目頭が熱い。胸が痛い。
わたしは、それを否定することはできない。
失う辛さを、恐れを、まだ知らないから。
だけど。
それでも。
――――葛葉さん。
この人の傍に居たいと願うのは、残酷なことなのでしょうか……?
「……晴明様」
彩雪は晴明に呼びかける。
すり抜けてしまうと分かっていても、彼に、その心に寄り添いたかった。
「後悔しないで下さい。わたしは貴方の傍にいて、力になりたいんです」
やはり、彩雪には目も向けない。
それでも良い。
彩雪は真っ直ぐに、瞳に想いを乗せて、彼を見据えた。
「たとえ、どんなに危険な目にあってもわたしは死にません。ずっと貴方の傍にいます。だから――――お願い。一人にならないで……」
手を握ろうとしたのは無意識だ。すり抜ける。何度も何度も握ろうとした。すり抜ける。
少しでも伝われ、伝わって。そして――――。
「え……?」
一瞬。
ほんの一瞬だ。
晴明の影に、温もりが宿ったような気がした。
驚いて晴明を見上げると、彼の虚ろだった目に光が宿る。
それだけではなかった。
その目が、彩雪に焦点を合わせたではないか。
彩雪は声が出なかった。
「……参、号?」
「晴明様……!?」
ちょっと……待って。
信じられない。
どうして、こんな――――こんなことが、起こるなんて!
影だった筈だ。
だのに目の前にいる彼は本当に晴明で、
困惑が過ぎて声が震えた。
「晴明様……なんで……」
「参号……私は……」
晴明の口が動く。
けれど、その直後に、突如として靄のように消えていく。
彩雪はぎょっとして晴明を呼んだ。手を伸ばした。
届かない。
「晴明様!!」
「参号……!」
晴明が、何かを告げる。
されど彩雪の耳には届かない。
待って、待って!
「わたしも葛葉さんも、後悔なんかしてません! わたし達は――――わたしは――――貴方の傍に居たいんです!!」
何度目の言葉だろう。
でも、深いところで否定されていた。
今度こそ……!
必死の声に、晴明ははっと目を瞠った。
直後に動いた唇の動きに、泣きそうになった。
完全に、晴明が消えてしまう。
彩雪は、腕をだらりと下げた。
押し寄せる孤独感。
それもすぐに払拭された。頬を流れる熱いものによって。
嬉し泣きに近かったかもしれない。
だって、だって、だって……。
彩雪って。
わたしの名前を、呼んでいたのだから――――。
「……戻ろう」
帰らなきゃ、一人で。
彩雪は腹に力を込めた。きゅっと唇を引き結び、力強く前へ突き進む。
今度は、わたしが迎えに行きたい。
そんな彼女の背中を押すように、空間に少女の歌が響き渡る。
言葉も無い鼻歌のようなそれに振り返ると、そこに澪がいる。うっすらと透き通った影だ。賽の河原の彼女が、そのままここに現れたようで、膝を枕に彼女の妹が眠っている。
されど一点、違っている箇所があった。
澪が何かを抱き締めているのだ。ややこの如(ごと)大事そうに抱え、慈母のような優しい笑みを浮かべている。
それは黒かった。黒い塊に、黄金色の石が乗っかっているような……。
よくよく見ようとすると、不意に澪の背後に大きな人影が現れる。
その人物は目元を和ませ、大きな手を伸ばす。
澪の頭を、そうっと撫でた。
「哀しき双子、哀しき小鬼よ。……我が娘にならぬか」
澪が、目を丸くする。
そこで、意識は一気に浮上した。
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