ふんわりと浮き上がったかと思えば、視界が変わった。

 暗く寒い河原から馴染みある空間へ。
 ただ、この空間に赤と蒼の玉が何処にも見えなかった。
 当然だ。赤は自身に良く馴染み、蒼は、彼のもとへ戻った。


「晴明様……」


 我知らず、呟く
 虚ろなる世界は、むしろ親しみ深い。何度も何度も、来ているし、この世界が彼らと繋がっているからだ。
 ぐるりと回り、離れた場所に黒い靄を見つける。
 前にも見たそれは不安そうに揺らめく。
 彩雪はあれ、と不思議に思う。

 その靄は、晴明の記憶の欠片の姿だ。赤の玉を受け取る際に、霧散したと記憶している、
 どうしてここに――――。

 近付こうとすると、靄は逃げるように距離を取った。
 けれど、逃すまいと近付く。

 触ったら……やっぱり痛いよね。
 でもそれは晴明様の痛みだ。
 晴明様の辛い思いを共有する共有できるのならば――――怖くない。

 彩雪は急いだ。逃げられる前に、白の世界を突っ切って靄に手を伸ばす。
 されど触れる前に下ろした。
 靄の中に何かが見える。目を凝らし、その光景を見た。

 二人。男女が映っている。
 晴明と葛葉だ。
 靄の中の光景とあって、ゆらりゆらりと不安定に揺れる。
 見たことがあるが、彩雪の記憶に残る光景とは少し異なっている。
 今度こそ、彩雪は手を伸ばした。そこに、一切の躊躇が無かった。

 だって、この記憶は大事な人のもの。大事な人の、辛い記憶。

 触れた瞬間、駆け抜けた激痛に身体を折った。が、それでも腕は伸ばす。奥へ奥へと、記憶の欠片に突っ込む。
 そして――――流れ込んできた。


 母を殺した半狐の記憶。


 彩雪はその姿を認めた。
 ……今なら分かる。

 彼は暴走してしまったのだ。

 葛葉は暴走した息子を止める為、己の所持した勾玉を渡そうとして、


 息子の牙に殺された。


――――と、ふと。
 声が、聞こえた。
 葛葉の声だ。


「……かの時、あの子は、初めて妖狐としての力を使うた。けれど、強大な力を抑えきれず、理性を喰われてしもうた。……もしかなれば、半分人の血が混じっていたせいやもしれぬ。けれど、暴走の源はきっと――――」


 何を信じていいか、わからなくなってしもうたから。
 心の拠り所を――――失うたから。
 寂しげに語る葛葉に、彩雪は心の中で彼女の言葉を反芻(はんすう)する。

 心の拠り所……それは、一体。


「かの時は、勾玉を用いることで、力尽くで暴走を収めることはできたが……悲しみがあの子を……深い谷へと、突き落としてしもうた。愛する者を――――失うたから」


 今の息子に必要なものは勾玉ではないと、彼女は言う。
 本当に必要なものは別にある。
 それは、何処か彩雪に縋るような響きがあった。

 彩雪は葛葉を促すように呼ぶ。

 が、急速に何かに引っ張られるような感覚がして、元いた白に引き戻されてしまう。後少しで、聞けたかもしれないのに。

 彩雪は落胆する。
 また靄が無いか周囲を見渡し、別なるものを見つけた。

 ……否、正確には『別なる』とは誤りかもしれない。
 記憶の主だ。
 彩雪が見てきた記憶の主が、そこに立っていた。

 晴明は微動だにしない。よくよく見ると、その姿は透けていた。
 もしかすると残留思念かもしれない。
 記憶の欠片だけではなく、彼の感情も流れ込んできているのだろうか。
 焦点の定まらぬ虚ろな瞳の彼は、彩雪に気付いた様子は無い。
 彩雪は晴明をじっと見つめた。

 すると、その薄い唇が、開かれた。


「……また、大切なものを傷付けた。傍に置いたせいで、余計な苦しみを与えた」


 ……母と同じように。
 慚愧(ざんき)に沈むらしくない声に胸が締め付けられる。
 それは誰のことを言っているのだろう。

 ……もしも、もしも。
 もしもそれが自分であるのなら。

 わたしは――――。


「これ以上、大切なものを失うのならば――――やはり誰も傍に置くまい。人として生き、だが人を傍に置かず、一人で生きて一人で死のう。大切なものを傷つける恐怖に比べれば。孤独など――――何を恐れることがあろうか……」


 喪(うしな)うことへの、恐怖。
 恐怖から選んだ孤独。
 母の願いを受けて人として生きながら、他人を遠ざけて生きてきた。
 人として生きるには長い時間を、ただ一人で。

 それが、報いだと自分に科(か)して。

 彩雪は、沈黙した。
 目頭が熱い。胸が痛い。

 わたしは、それを否定することはできない。
 失う辛さを、恐れを、まだ知らないから。

 だけど。

 それでも。


――――葛葉さん。
 この人の傍に居たいと願うのは、残酷なことなのでしょうか……?


「……晴明様」


 彩雪は晴明に呼びかける。
 すり抜けてしまうと分かっていても、彼に、その心に寄り添いたかった。


「後悔しないで下さい。わたしは貴方の傍にいて、力になりたいんです」


 やはり、彩雪には目も向けない。
 それでも良い。
 彩雪は真っ直ぐに、瞳に想いを乗せて、彼を見据えた。


「たとえ、どんなに危険な目にあってもわたしは死にません。ずっと貴方の傍にいます。だから――――お願い。一人にならないで……」


 手を握ろうとしたのは無意識だ。すり抜ける。何度も何度も握ろうとした。すり抜ける。
 少しでも伝われ、伝わって。そして――――。


「え……?」


 一瞬。
 ほんの一瞬だ。
 晴明の影に、温もりが宿ったような気がした。
 驚いて晴明を見上げると、彼の虚ろだった目に光が宿る。

 それだけではなかった。
 その目が、彩雪に焦点を合わせたではないか。

 彩雪は声が出なかった。


「……参、号?」

「晴明様……!?」


 ちょっと……待って。
 信じられない。
 どうして、こんな――――こんなことが、起こるなんて!

 影だった筈だ。
 だのに目の前にいる彼は本当に晴明で、
 困惑が過ぎて声が震えた。


「晴明様……なんで……」

「参号……私は……」


 晴明の口が動く。
 けれど、その直後に、突如として靄のように消えていく。

 彩雪はぎょっとして晴明を呼んだ。手を伸ばした。
 届かない。


「晴明様!!」

「参号……!」


 晴明が、何かを告げる。
 されど彩雪の耳には届かない。

 待って、待って!


「わたしも葛葉さんも、後悔なんかしてません! わたし達は――――わたしは――――貴方の傍に居たいんです!!」


 何度目の言葉だろう。
 でも、深いところで否定されていた。
 今度こそ……!

 必死の声に、晴明ははっと目を瞠った。
 直後に動いた唇の動きに、泣きそうになった。

 完全に、晴明が消えてしまう。

 彩雪は、腕をだらりと下げた。
 押し寄せる孤独感。
 それもすぐに払拭された。頬を流れる熱いものによって。
 嬉し泣きに近かったかもしれない。

 だって、だって、だって……。


 彩雪って。
 わたしの名前を、呼んでいたのだから――――。


「……戻ろう」


 帰らなきゃ、一人で。
 彩雪は腹に力を込めた。きゅっと唇を引き結び、力強く前へ突き進む。

 今度は、わたしが迎えに行きたい。

 そんな彼女の背中を押すように、空間に少女の歌が響き渡る。
 言葉も無い鼻歌のようなそれに振り返ると、そこに澪がいる。うっすらと透き通った影だ。賽の河原の彼女が、そのままここに現れたようで、膝を枕に彼女の妹が眠っている。

 されど一点、違っている箇所があった。
 澪が何かを抱き締めているのだ。ややこの如(ごと)大事そうに抱え、慈母のような優しい笑みを浮かべている。
 それは黒かった。黒い塊に、黄金色の石が乗っかっているような……。
 よくよく見ようとすると、不意に澪の背後に大きな人影が現れる。

 その人物は目元を和ませ、大きな手を伸ばす。


 澪の頭を、そうっと撫でた。


「哀しき双子、哀しき小鬼よ。……我が娘にならぬか」


 澪が、目を丸くする。



 そこで、意識は一気に浮上した。



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