常仕から戻った晴明はまず、源信に澪の手を治療するように言った。

 源信が怪訝に彼女の目を見れば、両掌が真っ赤に爛れており、澪自身も掻いたようで所々から血が滲んでいた。
 晴明曰く、依頼人の病の原因である、モノノケが宿っていた笏を素手で掴んだ為だという。笏に付喪神ではなくモノノケが憑いていたとは初耳だが、知恵の付いていたらしく、貴人のもとを呪禁師や陰陽師が訪れた際に隠れる場所であったと推測される。
 壱号も弐号も役に立たなかったと口角をひきつらせながら語る彼の後ろで、晴明の式神達は一様に青ざめ、脱力していた。

 どうやらともすれば舐めて治そうとする澪を、彼らが懸命に止めて諭しながら仕事寮へ帰還したらしい。……しかし、きっと後々《仕置き》されるのだろう。
 彼らを労いつつ、和泉は源信の治療を受ける澪の手を覗き込んだ。


「にしても、その笏は壱号も弐号も分からなかったんだよね?」

「あの邸、邪気が満ちすぎて何処から発せられてるか分からなかったんだよ。晴明に呼ばれて笏を見せられても、それが大本なのか漠然としか分からなかった。晴明もだろ?」

「ああ。だが、貴人の寝所付近にあるとは感じていたがな」

「それ最初に言わな!」


 弐号が抗議の声を上げた途端、晴明の周りだけ空気が冷え込んだ――――ように、式神達には思えた。ぐっと口を噤み仰々しい嘆息を漏らす主から視線を逸らした。


「私が言わずともそれぐらい分かっていると思っていたのだが、どうやら違っていたようだ。私は、お前達の能力を買い被りすぎていたのだな。まさかお前達のどちらもが中庭を調べないとは。澪の方がよくよく役に立った」

「まあまあ。何となく感じていたけれど、晴明が何も言わなかったから除外していたかもしれないじゃないか」


 源信の手当が終わると、澪は晴明に駆け寄って豊かな袖をくん、と引いた。
 何かを訴えるような目に、晴明は嘆息する。「少しは待てんのか」と懐から取り出したのは、干し芋だ。帰りに買ってきたのだろうか。
 それを与えると、澪はそれを大事そうに持って漣の側に座った。半分に裂いて漣に食わせてやる。そして己も、何処か嬉しそうに干し芋に噛みついた。

 褒美だろうか。
 和泉が晴明を微笑ましそうに見やれば、彼は忌々しそうに唇を曲げて顔を背けた。


「こいつは何でも口にしたがるらしい」


 ……要は、笏を食べそうになって慌てて買い与えることにしたようだ。
 和泉は澪の隣に座って頭を撫で、二人に労いの言葉をかけた。勿論、澪は食べることに夢中で和泉の言葉に応えを返したのは漣だけだったけれども。


「まあ、何にせよ、澪のおかげでそのお方が助かったというのはとても喜ばしいことですね。わたくしも、帰りに何か彼女にお菓子を買うことにしましょう」

「何や、この複雑な喜びとじぇらしぃは……わいらも頑張ったんやセーメイ〜」

「結果を出せ」

「うぐ……そない言わんでもええやんか〜」


 はああと大仰な溜息を漏らす弐号は澪を羨ましそうに見つめた。が、澪は全くその視線に気付かない。

 片目を眇めて弐号を冷たく一瞥した晴明はしかし、不意に和泉を呼んだ。
 彼が返事をする前に、


「密仕に、澪も出す」


 玲瓏たる声で告げた。

 途端にライコウが腰を上げる。


「晴明、昨夜アヤカシに襲われた澪殿をまた危険に曝せと言うのか!?」


 源信も、僅かに腰を浮かせて晴明を問うように見つめている。澪がアヤカシに襲われ、怯えた姿を見ているが故に、晴明の発言には双方得心が行かなかった。

 そんな彼らに、晴明は扇を掌に落とし、澪を見据える。


「アヤカシが本当に澪の目に惹かれていたのか、確認しておきたい。先程、澪の目を調べてみたが、さして気になる点は無かった。それが、異様なのだ」

「……安倍様。それは、わたくしも賛成しかねます。せめて言葉が通じるようになってから――――ではいけませんか」

「ああ。出来れば早急に調べたい」


 にべもなく切り捨てる。
 源信は眉尻を下げた。

 ライコウが噛みついても、晴明はさらりと受け流して和泉に視線をやった。
 和泉は澪の頭を撫でながら、思案顔で晴明を見上げていた。晴明の真意を探ろうとしているようで、何も言わずにじっと見据えてくる。

 やがて、ふっと微笑んで漣を見やった。

 漣は小さく鳴いた。


「じゃあ、俺も行こうかな」

「宮!!」


 あなたまで何を仰るのですか!
 雷鳴のような大音声に澪が身体を震わせてライコウを見上げた。
 それにうっと言葉を詰まらせてたじろいだ隙に和泉は晴明に頷いて見せた。


「晴明だって、澪が足手間といになることは分かってる。それでも敢えて密使に連れて行こうとするくらいなのだから、余程澪の目が気になるんだろう? そう思うと、ちょっと俺も気になって来ちゃってさ。晴明じゃ心許ないから澪は俺が守るよ」


 「けど」と、和泉は一瞬だけ源信に視線をやる。


「残念ながら、今日は密仕は無いんだ。だから。明日、なるべく俺と晴明だけでもこなせそうな、簡単なものをあてよう。怖い目に遭ったばかりの澪を危険に曝すのは、俺としても避けたいからね。それなら良いだろう? 源信」


 源信は渋面のままだ。
 けれど、漣が彼に歩み寄って諭すように小さく鳴くと、ほうと吐息を漏らして頷いた。


「……分かりました。ですがわたくしも参ります。よろしいですか」

「うん。構わないよ。じゃあ、明日の密使については、俺とライコウでよくよく吟味しておこう」


 和泉が澪を見下ろすと、彼女は状況が落ち着いたのを感じたのかまた干し芋に夢中になっていた。



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