※注意



 我に返った時、熊は死んでいた。
 無惨な姿になり果て、元の形も分からぬ程にぐちゃぐちゃにされていた。
 その側には、腹を血で染めた鵺が息も絶え絶えに横たわっている。

 誰がこんな惨たらしいことをしたか、考えるまでもなかった。

 だらりと垂れた腕は、胸元は、口の周りは、べったりと血で汚れてぱさぱさになっていた。
 その場に座り込み、遺体を茫然自失と見下ろした。
 嗚呼……やってしまった。
 どんなに消そうとしても消えない狂気。奥へ奥へ押し込めて、押し込めて。あんなこと、もう二度とするまいと身に戒めて、心から願っていた。

 歌は、まだ続いている。
 また澪を狂わせようと、嘲笑うように、森の中に響いている。



 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを



 ぎち、ぎち、と、自分が巻き戻っていく。
 思考も、何もかもが戻っていく。
 この歌の所為で。

 どうして聞こえるんだろう。
 この歌は。何処から聞こえるのだろう。
 彼らはもう死んだのに。
 私が食べてしまったから歌える人間はいないのに。
 こんなに沢山、いる筈がないのに。


「もう……止めて……、お願いだから……あの子、が……」


 どうして人には耳があるのだろう。
 耳があるからこんな歌が聞こえてしまう。
 耳が無ければ良い。

 ……ああ、そうだ。耳を切り落とそう。

 でも、刃が無い。
 刃物が無ければ、耳は切り落とせない。
 どうしよう――――そう、呟いた直後のことである。

 後ろに、気配。

 澪はふらりと立ち上がった。
 ゆっくりと振り返り、安堵した風情で微笑んだ。


「嗚呼、丁度良かった」

「……」


 布を被って顔を隠した背高の男は、息を呑んで惨状を眺めた。


「澪……ま、さか……」

「《どなたかは存じませんが》……その立派な刃を貸してはいただけないでしょうか」


 ふらり、と歩み寄って手を伸ばす。

 男は困惑して一歩後退するも、澪はそれを不思議そうに追いかける。


「耳を切り落としたいのです。どうか、お貸し下さいまし。でないと、ずっとこの歌を聴いていると、狂ってしまうのです。狂って……また、食べてしまいそうなんです。もう、お腹が一杯で……もう食べたくないのに、臭くて堅くて不味い人間の肉が食べたくなって、止められなくなるんです。あの子は満腹にならないから、そういう風にされてしまったから、私は食べないといけないんです。人間の肉を、沢山食べないといけないんです。不味いのに。お兄様を殺した、標を殺した人間達の肉なんて食べたくないのに、狂って食べたくなるんです。だから、耳を切り落としたいんです。この歌が聞こえないように。あの歌に狂わされないように」

「……澪……?」

「あら、聞こえません? ……ええ、そうですね。あなたは聞こえないのですね。村の人間ではないから。でも誰かが沢山歌っているんです。皆、皆、私を狂わせようと歌っているんです。もう鬼様なんていないのに――――ああ、いいえ。鬼様なんて元々いないのでした。釜の中にいるのは村人に殺された小さな赤ん坊なのに……あ、ごめんなさい。見ず知らずの方に、下らぬ話をしてしまいました。どうか、お気になさらないで下さいましね」


 男は耐えかねたように澪の双肩を掴んだ。強く揺さぶり、語気を強めて澪を呼ぶ。


「澪!! しっかりするんだ!! 澪!!」

「きゃっ……え? え、あの、何を……」

「歌など聞こえない、そしてもうお前のいた村は何処にも存在していない。――――ここは黄泉ではなく、都だ」

「みや、こ……?」


 男を呆然と見上げ、首を傾けた。

 ここは黄泉、ではない?
 ふと周囲を見渡し、確かに、と納得する。
 黄泉の気が強いだけの、現世だ。
 それが分かると、急速に意識が冴えてくる。戻り始めた記憶が一気に進み、塗り潰すモノを理性が剥ぎ取る。

 瞬きを繰り返し、澪は目を剥いた。


「……ライ、コウ様……?」

「……我に返ったか」


 安堵した風情で澪から離れ、手に何かを握らせる。
 呆けていた彼女はそれを見下ろし、驚いた。

 琥珀、だ。
 北狄が持っていた、あの子の大事な琥珀。
 ライコウを見上げると、彼は澪に背を向けた。
 殺さないのかと問おうとすると、それを遮るように背後で弱々しい声が。

 それに、澪ははっと我に返った。


「あ……漣、」


 澪ははっと振り返った。
 虫の息の漣に駆け寄り、傷口に手を翳(かざ)す。彼らの酷い傷を自らに移し、漣を呼んだ。


「漣、大丈夫ですか。漣」


 巻き込んでしまったのだと、罪悪感に胸が痛む。
 鵺の身体を揺すって呼びかけると、彼は起き上がり澪に顔をすり寄せた。


「嗚呼……良かった。ごめんなさい。ごめんなさい、二人共」


 抱き締め、繰り返し謝罪する。
 蛇が――――銀波が慰めるように頬を舐めたのが、少しだけ擽ったかった。
 漣を撫でながら南蛮の残骸を見やる。


「……公一様」


 呟き、また謝罪を乗せた。



.

[ 116/171 ]




栞挟