※注意



 果たして予想された衝撃は訪れなかった。

 澪は閉じていた瞼を開いた。

 直後にずるっと左肩から異物が抜けていく。
 ライコウの思わぬ行動に状況を確認するよりも早く、自らの上を跳躍して越えた影にあっと声を上げた。

 たん、という軽やかな着地音でようやっと身体を仰向けにする。落ちた腕を拾い上げて切断面に押しつけた。塞がるのを待ちながら目の前に立ちはだかる青年を見上げる。
 しかし、目を細めて小さく違う、と漏らした。

 この人は――――違うわ。
 いや、《人》でもない。
 腕を押さえながら立ち上がれば、《彼》は澪を振り返りもせずに、急襲に距離を取った死神ライコウに小太刀を向ける。
 澪からは彼の表情は窺えない。
 けれども、そのように《刷り込まれ》普段と良く似た笑顔を浮かべていることだろう。

 澪はようやく皮が繋がった腕を放し、ライコウが彼に矛先を向けている隙に北狄へ突進した。
 大事な大事な琥珀を返してもらう為に――――。


「――――澪!!」


 源信が鋭く叫ぶ。

 はっとして立ち止まった澪は右を見、息を吸った。
 彼と対峙していたライコウが、その刀を澪へ向けていたのだ。
 まさか、彼が彼でないことが知られている?

 ……いや、でも。
 有り得ないことでもなかった。
 澪が望むことも知らなかったものを持つこの二人。
 ライコウが、偽者を看破することくらい、造作も無いことだったのかもしれない。

 澪は右肩めがけて振り下ろされる刀に後ろに跳躍した。

 空振りする――――そう、思っていたのに。


「え……?」


 ふと、澪の視界を塞ぐように。


 彼が飛び込んできたのである。


 澪は瞠目した。
 後ろに傾いだ無機質な身体を抱き留め、その場に座り込む。
 赤い血の匂いに、一瞬だけ胸が躍った。一瞬とは言え、牙を出したからだ。微かな欲が胸中でくすぶっている。

 こんなところまで、本物そっくりに作られたのですね。
 澪は彼の身体をそっと床に横たえ、立ち上がった。
 金波銀波を呼び、北狄達を睨めつける。彼らの様子を見定め、唇を引き結ぶ。


「……源信様、」

「お逃げなさい」


 澪は彼が言うと同時に駆け出した。

 北狄は、偽者だと気付いていない。
 少なくとも今は、彼を――――御衣黄の宮和泉を殺したと思い込んでいる。
 なら、本物を守る為には、澪がこの場を逃げ出して彼らを連れ出す必要がある。
 源信はそれを分かって、澪の要望を呑んだ。けれども視線を巡らせれば無理はしないで下さいと眼差しが訴える。

 それに応えを返さず、澪は階段を駆け上がった。遅れて漣となった二人もついてくる。
 完全に塞がっていない右腕は動かせず、ぶらぶらと揺れて重心がズレてしまう。走りにくい。思うように速度が出せずに何度か転びかけた。
 それでも何とか大内裏を抜け、真っ直ぐ糺の森へ逃げる。

 糺の森の異界なら、きっと北狄達も追いかけてはこれまい。
 けれど――――。


「はああぁぁ!!」


 轟音のような雄叫びが夜陰を揺るがした。
 漣が澪の身体に突進しその重い衝撃を逃れる。

 右腕を庇って左肩を強打し、呻く。

 先回りされていた!
 闇の中浮かび上がる強大な熊。
 不穏な光を放つ目に、澪は奥歯を噛み締めた。


「……南蛮様」

「……」


 熊――――南蛮は、無言で得物を持ち上げた。

 何とか立ってその場から逃げようとすると、彼は地面に大斧が叩きつけ地面を揺るがして、また澪を転倒させる。


「く……っ」

「まずは、右腕……だったか」


 彼にも知られている。
 澪は冷や汗を流し、もう一度逃げようと試みた。

――――けれども。

 彼女から理性を奪うように、狂気の合唱が、静かな森の奥から聞こえてくる。
 その歌声は、大量の人間のそれが重なったように重厚で、おぞましく響く。



 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを



 聞こえる。

 聞こえる。

 聞こえる。

 聞こえる!

 どくり、心臓が大きく跳ね上がった。
 澪は己の身体を抱き締めた。

 ……蘇る。
 蘇ってくる。
 蘇ってしまう

 あの時の痛み。

 あの時の憎悪。

 あの時の恐怖。

 あの時の憤怒。

 あの時の絶望。

 あの時に捨てた、捨てたかった激情が湧き上がるように蘇る。


「あ……あぁ……!!」



 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを



 おぞましい歌が、一生聞きたくなかった絶望の歌が。
 聞きたくない!
 聞きたくないのに、森の奥から聞こえてくる。
 ざわざわと頭が、胸が騒いだ。

 このまま聞いていたら流されてしまう。

 逃げなくちゃいけない。
 この南蛮から逃げなければいけないのに。
 もう、過去のことだ、とうの昔に捨てたことなのに――――。


 人間が憎くて憎くて仕方がない。


 儀式の記憶が理性を赤黒く染めていく。
 彩雪も、源信も、晴明も、壱号も、弐号も、和泉も、ライコウも、浪太も――――菊花も。

 待って、消えないで。
 消えたら駄目。

 消えたら、無くなっていく。

 無くなったら、消えていく。

 過去に要らない者が、塗り潰されていく。


「や……めて……」

「……なるほど確かに。この歌で面白き程に取り乱す」

「いや……嫌、」


 誰か、止めて。
 この歌を止めて。

 止めないと、私は……私、が。

 私が。

 私が、



 鬼様 鬼様

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを






 あの惨劇に《戻って》行く。











































 聞こえたのは生け贄の絶叫なのか、狂獣の雄叫びなのか。

 本人にも、分かっていない。



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