捌
澪の目については晴明も気がかりだった。
糺の森で暮らしていた獣同然の少女。
霊力は微弱ながらにあるが、それが目に希有なる引力を生み出しているのかと言えば答えは否だ。引力よりも、霊力はずっとずっと弱い。
一度調べてみた方が良いかと、そう思って常仕を共に行うこととしたのだが――――。
「……はあ」
――――早速、それが間違いだったことを思い知る。
「あっ、こら澪! そっち行くなってば!」
「せやからわいは煮ても焼いても美味ないってぇぇ!!」
かまびすしい。
晴明は早くも、頭痛を感じていた。
未だに、件の場所には辿り着いていないというのに、だ。
本日晴明が担当した依頼は、とある貴人の病の原因を解明することだった。
貴人は、ほんの二日前までは健康そのものだった。蹴鞠や武芸などにも熱心な人物だったのだが、突如出仕途中で胸を押さえて苦しみ出してしまった。
宮内省の典薬寮の人間に看てもらったところ、薬や針などの治療でも快癒の傾向が見られず、同じく典薬寮の呪禁師が診察すると、それが呪詛によるものであることが判明。だが、呪詛自体はあまりに強く、その呪禁師には手に負えない程のものであった。
その為、安倍晴明の指名付きで依頼が仕事寮へ来たのだった。
斯様(かよう)に強いのならばと念の為に壱号と弐号を連れ立った。無論晴明の手伝いではなく、澪の世話役としてである。四人となってしまったが、致し方無い。
邸に辿り着くまで、晴明は苛々し通しだった。
まず、五月蠅い。
そして分かっていたことだが澪はあまりにも獣のように自由すぎた。壱号ではなく源信を連れてくるべきだったかもしれないと、今更ながらに後悔した。
が、邸に至れば途端にそれも気にならなくなる。
邸の築地からも漏れてくる邪気すらも酷く濃厚で、晴明も肩に重い鉛を乗せられた上に内臓を直接泥で撫でられるような不快感に襲われた。よく、この邸で生活出来るものだ。
だが、晴明に感じられるのは邪気。呪詛の気ではない。呪詛ではなく、モノノケにでも憑かれたらしかった。
邪気の影響で窶(やつ)れてしまったらしい家人に迎え入れられ、床に伏している貴人のもとを訊ねた。その頃には澪も大人しく、壱号に手を引かれて晴明に従っていた。無表情だが、壱号や弐号達のようにこの邪気に当てられているのかもしれない。唯一平気そうなのはアヤカシの漣くらいか。彼も澪と共に糺の森で暮らしていた筈だのにけろりとしていた。
「ここにございます……」
「案内(あない)感謝する。ここに長居しては体調も悪化しよう。退がられよ」
貴人の寝所に至ると、家人は深々と頭を下げてよろよろと寝所を後にした。
貴人の部屋は妻戸も蔀(しとみ)も余さず締め切られていた。
妻戸を開き一際濃い邪気の充満する廂(ひさし)から母屋(もや)を抜けて更に奧、塗籠(ぬりごめ)へと入る。
貴人は御帳台(みちょうだい)に横たわって幾重も着物を重ねて掛ける青年がいた。ほんの二日で、快活な好青年だったと聞く貴人は老人のように成り果てていた。
これ程の邪気を受けるのだ、邪気の根源の恨み――――いや、妬心(としん)はさぞ強いことだろう。
念の為に、依頼を受けた直後に和泉に貴人の身の上について訊ねていた。
ライコウの調べでは、人懐こい彼は何でもそつなくこなし上の者にも下の者にも、同年代の者にも慕われていた分、一部の卑屈な人間からは強い妬みを買っていたという。
かつて人であったモノノケが、出来すぎた生者(しょうじゃ)に逆恨みでもしたか。
晴明は御帳台の貴人を見定め、背を向けた。
「壱号、弐号。邸の中を探せ。邪気の本(もと)を見つけ出し、私へ渡せ」
この邪気を上手く隠れ蓑にしているが、モノノケの本体がこの寝所近くにいるのは間違い無い。ならば式神達に捜させればすぐにでも見つかるだろう。
壱号達に命じると、彼らは神妙に頷いた。
「けど、澪は? 晴明が面倒見る訳?」
「純な澪にいつも弄(もてあそ)ばれるわいから言うとくけどな、セーメイ。澪の相手はもうめっっっちゃどキツいで? しんどいで? セーメイは耐えられるんか?」
「……致し方あるまい」
ほう、と吐息を漏らして扇を上下に揺らす。辟易した態度でぞんざいに式神達へ指示を飛ばした。
それを不満がる様子も無く、むしろ晴明に同情的な眼差しを送って、二人はそれぞれ別方向へ走り、或いは飛んでいった。
弐号を追いかけようとした澪の腕を、すかさず掴む。
漣が小さく鳴いて側に腰を下ろすのに、晴明は眉間に皺を寄せた。
「もう少し、大人しく育てられなかったのか」
漣は、伏せた。
‡‡‡
――――遅い。
晴明は苛立ちをぶつけるように髪を払った。
澪は高欄に腰掛けて足をぶらぶらと動かしている。退屈なのだろう。だが、漣に諭されて大人しくしている。
「……あいつらは何をしている」
刺々しい言葉が口から漏れる。
本体はここから近い。さほど難しいことでもない筈だ。
だのにどうして、誰も貴人の部屋の目の前に広がるこの中庭を捜そうとせず、その上こんなにも時間がかかっていると言うのか!
帰って来て成果が無かったら仕置きだと考えた晴明の横で、漣がふと何かを報せるように空気を裂くが如く鋭く高く鳴いた。
何事だと胡乱に首を巡らせた晴明は、次の瞬間口角をひきつらせた。
いつの間にか高欄を降りていた澪が、晴明と目が合った瞬間突如として走り出したのだ。
「待て!」
待たない。
言葉が分からないのだからそれも当然である。
晴明は舌を打って漣と共に駆け出した。
漣が先行し、吼える。
けれども澪は何かを見つけたようで、迷う素振りも無く中庭を走り、遣り水注ぐ池に飛び込んだ。ばしゃんと水飛沫が立ち、澪の身体を濡らす。
四つん這いになって中島と中庭を繋ぐ反橋(そりばし)の下に手を差し込んだ。
そして、漣に襟首を噛まれて池から引きずり出される。
中庭にへたりと座る彼女の頭を、晴明は耐えきれずにぱこんと扇で軽く叩いた。
けれどその手に握られた物に柳眉を寄せる。
それは笏(しゃく)だ。非常に古い。
澪はその笏を噛もうとして晴明に即座に取り上げられた。
「これは食べ物ではない」
笏からは、強い邪気が発せられていた。モノノケが物に憑くとは非常に珍しいが、貴人が調伏を受ける一時だけ身を潜める隠れ家に笏を選んだのだろう。モノノケにしては少々頭が回るようだ。
だが周囲の邪気に紛れて、晴明でも確かな場所までは気付けなかった。二日のうちでこんなにも濃密な邪気を充満させる程なのだ、生半可な調伏法では祓えまい。
晴明はそれを取り返そうとする澪を押さえつけ、笏を検分する。
一つ頷いた後に、不満そうな澪に口角をつり上げてみせた。
「でかしたな。お前は扱いにくい分、あの式神達より少しは役に立つらしい。後で菓子を買ってやろう」
漣が通訳すると、澪は途端に大人しくなった。
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