澪は深々と一礼した。


「和泉様。そちらはどうですか」


 彼は澪の身なりに一瞬だけ目を細める。


「澪……その格好は」

「髪が、汚れてしまいまして。洗ってみたのですが汚れがなかなか取れなくてやむなく切り落としたのです。元々、こちらの長さでしたし」


 咄嗟に思いついた嘘をさらりと言う。
 すぐに笑みを張り付けた。歩み寄りながら首を左右に振る。


「さっき仕事寮で、みんなからの報告を受けたけど、消えた三種の神器に関する情報は、やっぱり……あまり集まらなかったみたいでさ。で、澪がなかなか戻らないから、君を探しながらもう一度都を歩き回ってるよ」

「そうですか。残念ながら、私の方は何も。思案するついでに少し休んでおりましたら、どうも眠ってしまっていたようで。お恥ずかしながら、私も阿弖流為様との戦いの疲れがあるようです」

「そう……でも澪と漣が無事でいてくれるなら、それで良しとしようかな」


 言いつつ、彼の表情は暗く陰る。
 澪はまた一礼し、謝罪した。

 和泉は苦笑めいた微笑みを浮かべた。


「どうも今回ばかりは、俺の読みが外れたみたいだ。ははは。こんな大事な時に……我ながら、情けないね」


 上げた笑声は乾き、落胆に低い。

 澪がじっと見つめていると、彼は逃げるように視線を逸らした。


「やっぱり、……いつも側にいる相棒がいないと。調子って出ないものみたいだよ? 笑っちゃうよね? ライコウと神器を探そうとしてるのに、ついいつもの癖でさ……『ライコウ〜、ちょっといいかな?』なんてさ。当のライコウに相談しようと名前を呼んでしまいそうになるんだよ……」


 饒舌(じょうぜつ)なのは、澪の目に見透かされたくないものを誤魔化そうとしているのか。
 されどその目にはしっかりと動揺が滲んでいて、何処か途方に暮れた幼子のようにも思えた。


「いったい、何時になったら帰って来るんだか。そう簡単に神器が回収できないなら、とりあえず報告にでも戻ってくれば……いいのに」

「……」

「でもなぁ……、ライコウは本当に真面目で、堅物だから、回収してからじゃないと戻れない! とか責任しょいこんじゃってるのかも知れないね」

「……」

「真面目なのが、アイツの取り柄でもあるんだけどね……。だけど、相談もなく何でもひとりで抱え込むのはやめてほしいよね。そんなに頼りにならないかな? 俺。ライコウとしては、俺に心配をかけないように――――とか思ってるんだろうけどね。隠されてる方が……よっぽど――――」

「哀れな方ですね、あなたは」


 ぽつりと、澪は漏らした。

 和泉は言葉を止め、顔を上げてきょとんと澪を見る。


「皇太子と言うことで、彩雪さん達と違って拘束されて貴族達の私利私欲邪念にずっと曝されておられたあなたは、なまじ賢しいが故にそうやって自分の身を守っておられる。そうやって、ずっと。そんなことを強いられるような立場であったからこそ、ライコウ様の存在はさぞ大きかったことでしょう。ですが、いつまで見ないフリ気付かないフリをされるおつもりなのですか」


 今度は、和泉が黙る番だ。表情を強ばらせた後、またすぐに笑顔の楯で身を守ろうとする。

 信じたい気持ちは分かる。
 だが、見て見ぬフリはいつまでもさせられない。
 澪は、確かにライコウに殺されかけたのだ。
 彼が沙汰衆に加わってしまったことを、知っている。

 それを言わなければならないと思う。言って、彼に現実を知らせなければならない。その上で、彼に行動を促さなければ。


 間に合わなくなる。


 危機感を感じるのに、それ以上澪は言葉を紡げなかった。言えと思えば思う程、口は堅く閉じてしまう。
 思い通りにならない自分の口が、まるで違う生き物のように思えた。


「……一度、仕事寮に戻ろうと思います。大内裏の様子を確認しておきたいですし。和泉様も、もう一度神器が保管されてあった場所を確認なさって下さい。何か、手がかりを見逃されているかもしれませんよ」


 澪は漣を呼んで、歩き出す。この場を離れるように促し、和泉の脇を通り過ぎて築地の穴から外に出る。


「漣。大内裏に戻った後、一つ用事を頼まれてくれませんか?」


 漣はすぐに鳴いた。



‡‡‡




『ですが、いつまで見ないフリ気付かないフリをされるおつもりなのですか』


 その言葉を聞いた時、自分でも最低だと思うけれど、澪を怒鳴りそうになった。
 お前に何が分かる、と。
 それがすんでのところで呑み込めたのは、己もまた澪のことを全くと言って良い程知らないからだった。

 自分は、彼女を獣の澪でしか知らない。
 まつろわぬ民であったという彼女がどんな場所で、どんな暮らしをして、どうして黄泉の一欠片と呼ばれるような不可思議な存在になったのか、どうして黄泉から逃れなければならなくなったのか、何も知らない。
 全てを知っているだろう晴明が、憎らしく思える。

 これが嫉妬だとは、分かってはいた。
 いつの間に澪をそんな目で見ていたのかは判然としないが、少なくとも今の自我がはっきりとした澪になってからだろう。獣の時の彼女を、手の掛かる愛らしい妹にしか思っていなかったのは確かだ。

 澪は和泉達とは違う場所で、違うものを見ている。己の役目に従って。
 だが自分は――――。


『ですが、いつまで見ないフリ気付かないフリをされるおつもりなのですか』


 また、脳裏に反響する。
 和泉はかぶりを振って声を払った。
 胸が痛い。

 分かっているのだ。
 その《可能性》を見るべきだと。吟味すべき事柄であると。
 されども、頭では分かっていても胸の奥で強く拒んでしまう。

 でも、だって、だから、きっと――――ぐるぐると巡る自己中心的な憶測。
 それを捨ててしまったら……捨てたくない。
 まだ信じていたい。
 僅かな希望に賭けていたい。
 そう、自分の我が儘で仕事寮を動かしているのだった。

 和泉はその場に座り込む。片手で顔を覆い、長々と嘆息する。
 目を伏せ、奥歯を噛み締めた。

 こんな時にこそ欲しい。
 ライコウの叱りつけるような重厚な声が。
 あの、厳(いか)めしい顔が。
 いない彼に、この不安を払拭して欲しかった。

 和泉の身体をはたくように、風が吹き荒(すさ)ぶ。
 今日の風は、嫌に冷たかった。冷たくて……鉄臭い?


「……?」


 鼻を突き刺す臭いに、和泉は顔を上げた。
 これは、血の臭いだ。
 立ち上がって鼻を動かす。
 吹き荒ぶ風の中、臭いの本(もと)を探すのは難しい。近くにあるのは間違い無いのだが……。

 何処にも、何も無い。
 もしかすると、茂みの中に獣の死体があるのかも知れない。澪がそれを埋葬していたとも考えられる。髪が汚れたというのは、その所為だろうか。

 和泉は探すのを止め、自らもまた仕事寮へ戻ろうと、きびすを返した。


 少し考えれば、澪の咄嗟の嘘も見抜けただろうに。
 彼にはそんな余裕は無かったのだった。



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