大仕事を終え、仕事寮から戻ってからも彩雪は眠れずにいた。
 身体は疲労を訴え休息を求めている。けれども目は冴えて床に入ってもなかなか寝付けなかった。
 何度も寝返りを打って、それでも駄目で。
 仕方なく簀の子に出てぼんやりと夜空を眺めている。

 静まり返った夜陰。
 沈黙の世界だからこそ、その音は異質に聞こえた。
 誰かが簀の子を歩いている。……邸を出ていこうとしているようだ。
 彩雪は首を傾げ、物音を追った。

 ざわざわと胸がざわめくのは、不安と心配。
 歩きながら彩雪はそれが晴明ではないかと確信めいた憶測を抱いていた。
 漠然とだ。そんな気がするだけだ。
 けども、悪路王――――阿弖流為(あてるい)との戦いを終え自身の正体を明かしてからずっと、晴明の様子が何処かおかしいような気がしてならなかった。苛ついている……それに少し似ている。けれどももっと深くて、暗いように思う。

 このまま気付かない振りをして邸に残ってはいけないような気がした。
 晴明かもしれない気配を追わなければならない気がした。
 追わなければ――――後悔しそうな気がする。
 彩雪は壱号達に気取られぬように門を静かに閉じ、微かに感じられる気配を無心に追った。
 飛び出した朱雀大路に人影は無く。さめざめとした月明かりに照らされて、本来の空気よりも肌寒く感じられた。密仕の帰りに通りもする慣れた道だと言うのに、今宵に限ってこんなにも恐ろしい。


「どっちに……行ったのかな」


 息切れする身体で、周囲を注意深く見渡しながら歩く。本当は走りたかったが、元々消耗していた自分の体力がそれを許さない。
 見失ってしまったのだろうか。
 彩雪は眦を下げた。


「……晴明様」


 求めるようなか細い声は無意識だ。

 直後――――。


「え?」


 胸の中が熱くなる。じわりじわりと広がるその中心に赤い勾玉の存在を感じ、彩雪は胸を押さえた。
 瞬間、脳裏に浮かび上がる光景。

 暗く沈む濃緑に囲われた森厳の神木。
 それは何度も見ている佇まい――――。


「糺の森……!」


 いつの間にか俯いていた顔を上げ、彩雪は衝動に任せて駆け出した。
 糺の森にいる!
 晴明様は、そこにいる。そう勾玉が教えてくれる。
 急がないと!
 ただただ、晴明の姿を追い求め、彩雪は夜の都を駆け抜ける。



 直向きな式神を見下すように、半身を赤に浸食された月が妖しい輝きを放っていた。



‡‡‡




 神域の森に入った彩雪はひたに走った。血のような味が咽からせり上がっても構わなかった。それよりも晴明をこのまま行かせてしまう方が、彩雪には怖かった。
 赤い勾玉は、葛の葉の想いが詰まっている。だから、勾玉が示してくれた場所に間違い無い。彩雪は確信している。

――――と、突如。

 咆哮が、聞こえた。


「!?」


 彩雪は思わず足を止めた。

 それは何かを求めて泣いているようで、途方に暮れているようで。
 聞いているだけで胸が強く締め付けられて悲しかった。

 何か大きな獣が寂しくて鳴いているのだろうか。これがただの獣ではないことは分かる。
 でも……何故だか怖さを感じない。
 それどころか親近感めいた暖かい気持ちが溢れてくる。
 この声の側に行って、大丈夫だよ、泣かないでと慰めてあげたくなるような、そんな赤子の如き咆哮だった。
 無意識にそちらに向かおうとした彩雪は、しかしはっと我に返って首を左右に振る。


「駄目駄目! 今は晴明様を捜さないと――――」


――――バサ、バサ。
 彩雪の言葉に、大きな羽音が被さった。
 えっとなって見上げると、日を求め延びた枝葉を軽やかに避けて飛んでいく黒い大きな鳥。
 その足が三本あったように見えて、彩雪は息を呑んだ。

 ……追わないと!
 彩雪は直感的に鳥を――――守護神を追いかけた。

 守護神は彩雪の速度に合わせ時折枝に停まってくれる。そのお陰で見失わずに済んだ。

 鳥に導かれて至った神木の前には希(こいねが)った姿があった。
 夜と似た色合いを纏いながらも夜闇の中にくっきりと浮かび上がる彼は、駆け寄る彩雪に気付いてゆっくりと振り返る。彩雪を捉えた瞬間丸く見開かれる鋭利な目。


「晴明、様……」


 彩雪は限界間近の身体に鞭打って、呼吸を整えながら晴明に歩み寄った。
 けれども彼の前で膝が折れ、支えられてしまう。


「す、すいません……」


 顔を上げた彩雪は、息を呑む。


「……どうしてお前がここにいる」


 晴明は、無機質な顔で彩雪を見下していたのだ。
 そこに感情などありはしない。常なる嗜虐嗜好の滲んだ笑みも、機嫌が悪そうな仏頂面も、何処にも見当たらない。
 まるで彩雪が《物》であるかのように、彼は見ていた。


「あの……わたし……」


 声が、震える。
 この無機質な声、無機質な顔……知ってる。
 もう随分と見ていなかった気がする――――わたしが目覚めた時、わたしを作り出した物だと断じた時と同じ。
 ひくりと咽がひきつる。
 足下が崩れているような、そんな不安定な感覚に襲われた。

 声を失う彩雪に、晴明の冷たい声は続く。


「どうしてここに来た、と聞いている」

「……晴明様が、心配で」

「お前ごときに、心配される筋合いは無い」


 即座に返される言葉は、鋭利な刃物と化し彩雪の胸を斬りつける。
 けれどまた胸が熱くなる。


――――信じろ。
 彼を、信じろと、彩雪を叱咤する。


 彩雪は晴明から身を離し、胸に手を当てた。落ち着け、落ち着け、わたし。落ち着いて、よく見て。
 真っ直ぐに見据える。

 これは、いつもの晴明様じゃないんだ。
 わたしが見たことの無い晴明様なんだ。
 ずっと感じていたじゃないか。深くて、黒い――――。


――――怒り。


 彼は怒っている。その感情に突き動かされ、そして彼自身も自覚している。自覚しているからこそ感情を殺して抑えつけているのだ。
 彩雪にはその怒りの矛先は分からない。
 だけど、間違ってはいない。


「さっさと戻れ。これは命令だ」

「……できません」


「……何だと?」晴明の目が細まる。

 けれども彩雪ははっきりと言った。


「できません、と言っているんです」


 晴明の目尻が痙攣しても、彩雪は背筋を伸ばしたまま毅然と向き合う。


「お前はわたしの式神だ。ならば主の命令に従え」

「し、従うのは、わたしの意志で決めたことです。今は、それを聞きたくないので撤回します!」


 そこで、晴明は口を閉ざす。

 負けるな、わたし。
 ここで退いたら、駄目。絶対駄目!
 己を鼓舞して真っ直ぐ見据える。逃げぬよう、両の拳に痛い程力を込めて。


「晴明様、ずっと一人で何かを探ってましたよね。もしかして、もうこの騒動の黒幕を突き止めているんじゃないですか?」

「……」

「これから、一人で解決に向かうつもりなんじゃないんですか?」

「……」

「それで、戻ってこないつもりなんじゃ……ないんですか?」

「……」


 全てに返される無言の意は、肯定だ。
 彩雪は言葉を返さぬ主に、胸が震えるのが分かった。
 自分で作った寄りかかってよすがとしていた壁が、脆く崩れていくのに歯止めが利かない。

 防壁の崩壊は、感情に大きな波を立てた。


「……どうして」


 感情に押されてはいけない。
 分かっているのに――――。


「どうして、一人になろうとするんですか……」


 言葉が止められない。
 感情を抑圧出来ない。


「自分が、人とは異なる存在だからですか? だから一緒にいられないんですか!? 時の流れが違うからって、そんなの理由にならないです。だって、澪や漣がいるじゃないですか。澪達だってわたし達とは違ってる。でも今は、仕事寮の皆や、壱号くんや弐号くんや――――わたしだって、いるのに」


 彩雪は、叫んでいた。止められない感情が、腹に力を込めさせる。


「なのになんで、一人で決めちゃうんですか!? 皆を遠ざけて、全部一人で抱え込んで――――人で……傷付こうとするんですか……!」

「……」


 晴明は、沈黙したままだ。

 ひとたび吹いた風が彩雪の目から流れた涙を冷たくする。その感覚が寂しくて、涙がまた流れてしまう。
 何も語らぬまま時は過ぎる。

 沈黙を破ったのは晴明の方だった。


「……皆には、それぞれやるべきことがある。そして澪らも、これ以上苦しむ必要も無かろう。あれは不完全ながら十分過ぎる程働いた。これ以上無理をすれば消えかねん。人としての幸せを知らぬまま。最愛の妹達の元に帰れぬまま」


 だから自分一人でいいのだと、言外に告げる。
 そんなの、駄目だ。


「……わたしのやるべきことは、晴明様の傍にいることです」

「お前には重要な役目がある。共に連れて行くことはできぬ」

「役目ってなんですか? それはこの間の儀式に関わることなんですか?」


 赤い、勾玉。
 無意識に左手が胸を掴む。


「そのせいで……わたしは晴明様の傍にいられないんですか? 同じ時を生きろと言ったのに?」


 受け入れると決めた。
 それがどんな結果になろうとも。
 わたしは、晴明様の傍にいたい。この悲しい記憶を持つ人を一人にしたくない。


「……お前には、仲間がいる」

「わたしは、晴明様と一緒にいたいんです」

「……」

「晴明様といなければ、意味が無いんです!」


 声が震えている。止まらない。
 みっともないから止めたいのに、駄目だ。上手く行かない。
 また涙が滲んできて慌てて俯く。堪えるように下唇を噛み締めた。

 さっきみたいにもっと近付きたい。
 でも、出来ない。
 なんてもどかしい距離だろう。いつもよりは近い距離の筈なのに。
 こぼれそうになって、堅く瞑る。

 胸が痛むのは不安と、寂寥(せきりょう)と、辛苦。
 至る所から刀を突き刺されているようだ。

 押し黙って立ち尽くしていると、溜息が振ってくる。


「……お前は」


 私が、恐ろしくはないのか。
 ともすれば儚く消えてしまいそうなか細く弱々しい声だった。
 しかし彩雪は決して聞き逃さない。深く大きく頷いて、滲んだ視界の中彼を捉える。


「晴明様が何者であろうとも……過去に何かあったのだとしても、わたしは恐ろしくはありません」


 それに、彩雪は晴明の過去を見た直後に、もっと酷く辛い目に遭った澪を見ている。でもわたしは今、澪も怖くない。どんな過去があっても、澪が、大事な仲間に変わりは無いからだ。
 なのに晴明様を怖がることなんて有り得ない。


「……儀式の前に言いましたよね? わたしは貴方の式神です。……だから、貴方を信じる、と。その覚悟を、晴明様は信じてくれないんですか?」


 問いかけて、また息を呑む。


「……馬鹿だな、お前は」


 優しい笑みを、浮かべていた。

 それだけで全身から力が抜ける。


「……はい、馬鹿です。だからわたし、何を言われようとも晴明様から離れません。晴明様が、これからどこに向かおうともついて行って、意地でも都に連れ戻しますからね!」


 決して、一人になんてさせません。
 笑顔になって、まくし立てるように宣言する。

 晴明はややあって、堪えきれないような失笑を上げた。

 ぎょっとして晴明に駆け寄ると、


「いや、なに。私は本当に、面白い式神を作ってしまったと思ってな」

「そ、そんなにわたし、変なこと言いました!?」

「いやいや、実に愉快だ。は、はは」


 沈んだ空気は一転。
 壊れた雰囲気に彩雪は反応に戸惑った。

 ……が、段々と馬鹿にされているような気がしてきたかもしれない。



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