漆
いつもより早く仕事寮に出仕した源信は、共に出仕した澪の首に巻かれた包帯について、遅れてやってきた周囲から質問責めを受けることとなった。
特に、昨日澪を助けたライコウは大層驚いていた。あの時は見えなかったのだから致し方ない。源信も、学び屋に戻って灯台を付けた際に、気が付いたのだった。
澪の首筋にはざっくりと、刃物で斬られたような傷があった。幸い血は止まっており、浅くはないが致命的な深さではなかった。
だが、どう言った経緯でアヤカシに襲われ、この傷を負ったのか源信には分からない。澪に訊ねようにも彼女にも漣にも言葉が通じないのだ。
なので早くに出仕して弐号に通訳を頼みたかったのだが、残念ながら弐号は出仕途中で壱号と《じゃれ合い》、何処ぞかに蹴り飛ばされてしまったらしかった。弐号がぼろぼろの体で仕事寮にやってきたのは、ライコウがひとまず本日の依頼を読み上げようとした時であった。
よろよろと晴明の足元まで歩み寄ってきた彼は、さめざめと大袈裟に泣く素振りを見せた。
「壱ぃ、酷い、酷すぎるわ……! わいのおっ茶目〜なボケをあないにすげなく、冷たく……ちょい聞いてえな! 話すも涙、聞くも涙の物がた――――むぎゅぅっ」
「五月蠅い。良いからお前は漣の通訳しろよ」
「ん? 通訳? 何や、また何かあったん――――かあぁぁ!?」
何気無く、何てことも無いことが起こったのだと踏んで澪を見た弐号はしかし顔を変えて文字通り飛び跳ねた。小走りに駆け寄って澪の肩に飛び乗る。
「ど、どどどどないしたんや澪! 首が真っ白――――やあらへん、包帯巻いとるやんか! 嫁入り前の娘が身体に傷作ったらアカンでぇ!」
柔らかな羽で頭を撫でると、澪はその身体を掴んでがじっとかじり付く。
「……って、今の澪じゃ分からへんわなぁ」
「丁度良かった。ライコウ。先に弐号に通訳をしてもらおう」
「はっ」
和泉はにこやかにライコウに頷いてみせ、弐号を呼んだ。弐号を澪から救出し、漣の前に置く。澪にはさり気なく源信が干菓子を与えた。
「弐号。昨日澪に何が遭ったか、漣の話を通訳して欲しいんだ」
「おう。リョーカイや」
弐号が片手を挙げて漣を呼べば、彼は顔を弐号に近付けて鳴いた。
「……ふむふむ。まず、食べもん持った姉ちゃんに誘われて源信とこの学び屋を出たんやな。そっから、漣が言って戻ろ思たら別に男がおって澪の首に短刀当てたと」
「……十中八九、人攫いでしょうね」
想定していた筈なのに、呆気なく許してしまうとは。
己の不甲斐なさに、溜息すら出てこなかった。子供達に教えながらも澪の行動には注意していた。それが昨日に限って、ほんの一瞬意識を逸らしてしまったが故に……。
澪にも漣にも、申し訳なかった。
「で、そのまま連れて行かれたのかよ?」
「ちゃうんやて。ライコウの刀で恐怖植え付けられとったさかい、めっちゃくちゃ暴れて逃げ出したんや。首の傷はそん時のもんやな」
そこで、ライコウが呻くような声を漏らした。
「で、右京の南の湿地帯まで逃げたんはええけど、廃墟に隠れとるうちに追いかけてきた人攫い達がアヤカシに食われてしもて――――次は澪が目付けられたんやな。そっからは朱雀大路まで逃げて、ライコウに助けられたっちゅー訳やな。いやー、良かったなぁ澪。ライコウに助けてもろて」
けれども、湿地帯に逃げ込んできた人間を待ち伏せ食らうアヤカシが、幾ら夜中で人気が無いとはいえ、たかが澪一人の為にわざわざ朱雀大路まで出てくるだろうか。すでに人を食らっていたのなら、躍起になって追う程でも無かろうに。
それだけ澪が至上の餌だったとでも言うのだろうか。
――――目、か。
澪の中で抜きんでているものと言えばそれ以外に無い。
目を惹き付けるのは人だけではないのだとすれば、それは非常に厄介なことだ。澪に降りかかる危険が一層増えてしまう。
漣は澪については追々話すと言ってはいたが――――。
源信は澪の目を覗き込み、他の者達には見えぬようにその目を開いた。
澪がこてんと首を傾けてそれを凝視し、数回瞬きを繰り返す。
暫し見つめて、源信は目を伏せた。
――――闇だ。
彼女からは、何も《見出せない》。
何かに塞がれている訳でもない。
真実、《何も無い》のだった。
「源信」
思案を遮られるように和泉に呼ばれ、振り返る。和泉は苦笑を浮かべながら、小さくかぶりを横に振った。その側で漣が源信を見つめている。警戒こそ無いが、その赤い目はまるで源信が何をしたのか見定めているようだ。
源信は困ったように笑って、澪の頭を撫でた。
「澪の目が、アヤカシも惹いてしまうのかもしれません。これは困りましたね」
「そうだねぇ。何処かでアヤカシに目を付けられて、夜《留守》にしていた時に襲撃を受けられちゃったら……昨日みたいにライコウ達に助けてもらえないだろうし。漣だけで対処出来なかったりしたら真実危ないだろうし……」
「宮、護身術を教えられては?」
「言葉も通じてないのに?」
ライコウは沈黙する。
まずは澪に言葉を教えなければならない。
が、会話が出来るまではまだまだその道程は長い。
和泉は何かを含んだ眼差しを晴明に向けた。そして、にっこりと微笑んだ。
すると、晴明は露骨に嫌そうな顔をする。面倒ごとは御免被る――――そう、表情にはっきりと出ていた。
だが、源信が深々と頭を下げ、和泉が澪の首の包帯を示すと、眉間に皺を寄せて、
「……私の邸で預かろう。餌に弐号を残しておけば問題は無い」
「餌って……誰が炭火焼き地鶏や! 食うたかて美味しないで!」
びしっと片手で晴明にツッコむ弐号はしかしすぐに晴明に蹴飛ばされた。床を跳ねて簀子(すのこ)の方まで転がってしまう。
「ありがとうございます。安倍様」
「弐号もいるんだったら安心だね。良かったね、澪」
よしよしと、今度は和泉に頭を撫でられる澪は、和泉の言葉を理解出来ずに不思議そうに和泉を見上げた。
けれど和泉の袖を引いて歩き出す。
和泉が不思議に思ってそれに従うと、ライコウの袖をつと摘んで、
「らいこー」
と。
これには和泉も、ライコウも仰天した。
澪はつい昨日までライコウを警戒していたのだそれが服を摘んで、辿々しい発音で名を呼んだ。
昨日ライコウが助けたことで、警戒が解けたのだろう。
なんと単純で――――なんと純粋な娘であろうか。
和泉は仰いでくる彼女に頷いてみせた。
「正解。彼はライコウだよ。良かったね、ライコウ」
「……ええ」
困惑しながら、しかし歓喜に瞳を輝かせながらライコウは大きく頷いた。
「じゃあ澪のことはそういうことにするとして。依頼の話に入ろうか」
和泉は彼の肩を叩き、源信達をぐるりと見回した。
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