玖
※注意
「炎舞蝶」
鋭く唱えられた呪は、炎の蝶という形を作り顕現する。
それらは分裂を繰り返し無数の群となりて漆黒の闇を踊る。ひらりひらりと軽快に弾むように飛びながら火の粉を蒔き散らしては邪気を焼いていく。
それらは強靱なる彼に襲いかかった。
彼は舞う蝶を鬱陶しげに斬り払うも軽く優雅にかわし、生まれた風に乗って背後に回る。まとわりつくなり彼は苦しげに呻いた。
晴明はその様に口端をつり上げた。酷薄な笑みだ。
澪からすれば、あまり良い気はしない。澪だけが彼に思い入れが強いから、仕方がないとは言えども。
「溶けろ」
非情な命令。
瞬間彼の身体中に停まり羽を開閉させていた蝶は一斉に燃え上がった。それぞれの炎が混ざり、大火を成す。
咆哮のような悲鳴は大地を揺るがすだけでなく、仕事人達の身体を痺れさせる。彩雪がよろめいたのを支えてやった。
猛火に包まれた彼は、膝を折り地面に剣を突き刺してよすがとした。
「やった!」
「いや、まだやで。この程度やったらまだ――――」
澪は静かに頷いた。……むしろこの炎で彼が消失してしまっては困る。
ぐらり、と。
傾ぎながらも彼は立ち上がった。刀を大きく薙ぎ、炎を風で払ってしまう。
依然、赤い目はぎらぎらと憎悪と怒りに燃え上がっている。あの猛火よりも、強く、激しく。
徒人(ただびと)であればあの眼光だけで死んでしまうかもしれない。
「……ふん、この程度では効かぬか」
晴明の忌々しげな舌打ちが聞こえる。
「……消されては困る者がいると、ちゃんと分かっておいでなのでしょうか……」
晴明の調子が思わしくないのは、見ていて分かるけれども。
原因はきっと、ここに来る前にある。
はらはらと見守る彩雪、その胸を見やる。
……確かに、感じられる。その波動。
「アカン。セーメイの奴、全っ然調子出てへんやないか!」
「そんなっ……」
彩雪はざっと青ざめる。
けれど、そんな彼女の不安を煽るように、彼は咆哮する。
それを合図に仕事人達は構えを直した。
そして、死闘は再開される。
先に攻撃を仕掛けたのはライコウ。
太刀で以て躍り掛かり、一閃。しかし容易く弾かれてしまう。
更に返す刀。今度はその胴に入るも鋼鉄の身体に跳ね返されてしまう。
更に、更に。
反撃の勢いを鍔で逸らすも膝は衝動に負けた。
彩雪が声を張り上げようとしたのを澪は手を強く引いて止めた。視線は彼を捉えたままだ。
ライコウの大きな身体が傾いだその刹那、彼の背後の源信が錫杖を飛ばしていた。
それを金波が掴み背骨に思い切り突き立てる。金波銀波は剛力だ、鋼鉄の身体でもそれなりの損傷は出る筈。
彼は忌々しげに唸ると即座に金波へと片手を振るう。
金波の隣に立って代わりに剣を受け止めたのは銀波だ。その隙に金波は高く跳躍し、空中にて気を形にした矢を喉笛めがけて射る。
ライコウはその間背後に跳び退(ずさ)り間合いを計ろうとする。
が、金波の一矢を難無く避けた彼は追撃を加えた。
それを阻む、晴明の幻雷蝶。
今度のそれは、黄色だ。
炎舞蝶とは違い異様な速さで彼の周りを飛び交い彼を覆う。
触れた瞬間、雷撃。
容赦ない雷が至るところで発生し、体内を巡る。
彼は身を捩った。
そこへ、壱号。
炎の連弾が襲いかかる。
雷と混ざり合い、身体を焼いていく。
視界が、眩く弾けた。
「ライコウ! こちらへ!」
和泉の声に従い、ライコウは彼の視界から外れて間合いを計る。
その時だ。
「ニク……イ……」
彼が、声を発した。
「全テ……滅ビヨ……都モ……全テ――――!」
低く唸るような声に、彩雪が小さく悲鳴を漏らした。
久方に聞く、彼の声だ。
駆け寄りたい衝動を堪え、今ならと抱いた希望を抑え込む。今はまだ駄目だ。きっと、また攻撃されてしまう。
攻撃を受け続けた所為だろうか。
闇が幾分か晴れ、彼のおどろしき姿が鮮明に浮かび上がる。
姿が判然としたところで、威圧感がより強く案じられるようになっただけだ。闇が薄まったとて、彼の力を削いだ訳では決してなかった。
「念のために聞いておこうか。……貴様、名をなんと言う」
晴明が静かに問いかける。
彼は暫し沈黙し、嗤(わら)った。
「名ァ……?」
彼は嗤笑(ししょう)した
狂った哄笑が夜陰を震わせる。
ガチガチと鳴っているのは鎧と、骨。ぎしぎしと軋んでいるのは、大きく振れる腕。
腐りかけて白い虫の湧いた口は限界まで大きく開いたが故に耳まで避け、どろりとした血でもない液体を垂らす。唾と虫が、大音声と共にぼたぼたと地面に落とされた。
「貴様ラア付ケタ名ヲ忘レタカ! 己カラ名ヲ奪イ四肢ヲ奪イ、今マタ黄泉カラ引キズリ出シテ、名を問ウカ!」
彼は、晴明を視界に認め、睨めつける。
晴明が臆すことは無く。同じ問いを繰り返した。
「ハハハ! 良イダロウ。ナラバ貴様ラガ付ケタ名ヲ名乗ロウ。――――我ガ名ハ悪路王。北ノ地ニテ貴様ラ都人に殺サレタ、マツロワヌ民ノ王ヨ!」
憎悪が、殺気が、膨れ上がる。
澪は、両手を組んで目を伏せた。
悪路王――――都の人間が勝手に付けた不名誉な異名。
「違います。悪路王などと、あなた自身が名乗ってはなりません」
「澪!?」
「あなたは、北の地の王。その誇りを決して捨ててはなりません」
彩雪の前に立って、澪は声を張り上げる。
「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)様。それがあなた様の名前。都人が付けた名など、塵程の価値もありませぬ」
「澪、何を言って……」
「あなたの憎悪も、正当なものと言えるでしょう。坂上田村麻呂はあなたの降伏を受け入れ、助命嘆願をした。けれども傲慢な都人はそれを一蹴し、阿弖流為様と母礼(もれ)様を処刑した。民の為に侵攻に抗い、降伏したあなたは、さぞお怒りのことでしょう。ですが、その都人の血でその手を染めるのは、お止め下さい。ただあなたの手が無駄に汚れるだけ。それに、ここにあなたの守るべき民はいない」
皆様は、《あちら》で、王のお戻りをお待ちです。
澪は彼に近付かぬよう阿弖流為を諭す。
まだ、届くとは思っていない。でも、彼自身が都人が付けた名を名乗るのだけは止めて欲しい。
澪は、彼をじっと見据えた。
果たして――――。
「都人ニ与(クミ)スルカ小娘!!」
阿弖流為は、激昂する。
轟音とも言える怒号に、身体を殴られた。
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