悲鳴を上げて起き上がった彩雪は瘧(おこり)のように震える身体を抱き締めた。

 笑ってる。
 沢山の人が笑っている。
 人を生け贄に、惨たらしい殺し方をして。

 澪が、澪が、澪が……!!

 半狂乱になってひきつった悲鳴を上げる彩雪を、横から叱りつけるように強く呼ぶ声がする。
 その声の主を確認するよりも早く、紺色に包まれた。


「落ち着け、参号」

「あ……あぁ……っ」


 服を掴んで縋りつく。声の主は――――晴明は、あやすように彩雪の背中を軽く叩いた。
 それだけで、恐怖が、薄れていく。
 現実の温もりに触れて、落ち着きを取り戻していった。


「……目は覚めたか?」


 こくんと頷けば、晴明は彩雪を解放する。
 重ねられた手に心から安堵した。……ああ、帰ってきたんだ。


「……参号?」

「あ、の……夢を、見て」

「夢だと?」

「澪が……澪が、祭壇のような場所で……か、身体、を、切り刻まれて……」


 拙く話し始めた彩雪は、しかしひゅっと息を呑む気配に思わず声を止める。
 式神は夢を見ない――――また、そう言われてしまうだろうか。
 いや、言って欲しかった。
 あの夢だけは否定して欲しかった。
 だって、あの夢が本当のことだったら澪は――――。
 口を噤むと、晴明は彩雪の頭を撫でた。

 えっとなって晴明を見上げると、彼はとても辛そうな顔をして、


「忘れろ」


 そう、言うのだ。

 忘れろ、なんて。
 それじゃ肯定しているも同じじゃないですか。
 違う、違うんです、晴明様。
 わたしはあの夢を否定して欲しいんです。

 澪は、ちゃんと《生きてる》んだって、言って欲しいんです。

 何も言えなくなってしまった彩雪は、また自分の身体を抱き締める。


「忘れろ。……お前の知る澪は、今はまだあの澪だけで良い」

「……」


 それは、逃避だ。真実から目を背ける行為だ。
 けども――――彩雪はそれに従う。
 おぞましい光景を、今だけと言い訳して拒絶した。

 彩雪が神妙に頷いたのに安堵した風情で、晴明は薄く微笑んだ。話はこれで終わりだと、話を変える。


「……術は成功したようだ」

「術……そうだ」


 さっきまで、わたしは大きな儀式の途中だったんだ。
 命に関わる程の、重要な儀式。
 いつの間に眠ってしまったんだろう。
 それに、成功と言ったって、何も変わっていないような気がする。
 夢の中で赤い玉を分け与えられたけれど、それは関係ないような気がするし……、
 あとは晴明と澪、それぞれの痛ましい記憶を見たくらいだ。

 思案する彩雪に、晴明は穏やかな声で言葉を続けた。


「どうやら安定したようだな」


 息を吐き、彩雪の頭から手を離す。
 下がっていく手が視界に映った途端、彼女の身体は勝手に動く。自身から離れていく手を追いかけ、逃さぬよう強く握り締めた。

 晴明は寸陰驚き不思議そうに彩雪を見る。

 無意識下の行動であり、意図しなかった行為に彩雪自身もはっと固まる。ああ、わたし、何ていうことを。急速に頬が暑くなっていくのが分かった。
 これでは、またからかわれてしまうではないか。


「あ……その……」


 謝罪して手を離そうとすると、言葉を遮って握り返されてしまう。
 えっとなって軽く瞠目した彩雪に、晴明は目を逸らし少し言いにくそうに口を開いた。


「……術は成功したと言ったが、どうやらまだ不安定のようだ。だから――――もう少しだけ、こうしていよう」


 囁くような言葉の後に浮かんだ、微かな微笑み。

 彩雪の胸でどくりと、心臓が跳ね上がった。
 しかし、心地よい温もりに優しく包まれた手が、とても嬉しい。
 何も言わず、小さく頷いた。

 夜陰の静寂は、苦ではない。
 時折夜風が鳴き、虫が共鳴する。寂しい歌だ。
 彼らは確かな音で存在を示しているけれど彩雪には、見えない。音を聞きつけるだけだ。

 寂寥(せきりょう)としたこの沈黙の邸の中、存在がはっきりと分かるのは自分自身と晴明。
 手から互いの体温が交わり、まるで一つに解け合っているかのような錯覚に陥る。
 とても、安らぐ。

 ふと、視線を上げて晴明の様子を窺った。
 閉じられた目の下には、薄い隈が見受けられる。


「……晴明様」

「……なんだ?」

「その……もしかして、疲れてませんか?」

「……まあ、大掛かりな祭儀を行ったからな」


 まさか、わたしが眠ってからずっと起きていたんじゃ――――。
 それにどうして気付かなかったんだろう。ここは晴明様の部屋じゃない。わたしの部屋だ。

 ということは、彼が、ここまで運んできたということで。
 彩雪はぎょっとした。


「晴明様、少し休んでください!」

「いや、いい」

「でも!」


 その時、手を握る強さが増した。


「このままでいいと言っている」


 ……今はこの方がいい。
 目を伏せたまま、安らいだ表情で言われれば、何も言えなくなる。
 彩雪は困惑に瞳を揺らすも胸を押さえた。

 ……晴明様は、今。
 何を想って、この手を繋いでいるのだろう――――。
 じっと晴明を見つめていると、晴明の瞼が徐(おもむろ)に開かれる。

 深い緑が、彩雪を捉えた。


「……参号」


 手の力が、また強くなる。
 かと思えば握り直された。
 その手を見下ろした、その刹那。

 衝撃が、二人を容赦無く襲った。

 仰天して首を竦(すく)めると、晴明が手を離して腰を上げた。


「来たか」


 空気が一気に張り詰める。

 彩雪の呼びかけは手で制された。
 彼の視線は真っ直ぐ、蔀(しとみ)の開いた先に注がれる。
 舌打ち。


「この気配……まさか、澪か」


 怪訝そうな呟き。
 澪が、どうかしたのだろうか。
 先程の夢のこともあり、彩雪は澪のことには非常に敏感になっている。
 自らも腰を上げて晴明に歩み寄れば、丁度蔀の隙間からひらりひらりと舞い込んでくる。

 蝶だ。
 晴明の。

 晴明が差し出した指に停まるや否や蝶は一枚の紙片へと姿を変じる。


「……他は、消されたか。かなりの数を放っておいたのだがな」


 眉間に皺を寄せ晴明は独白する。

 何か、大事が起こっているのではないか。
 彩雪は晴明の手の中の紙片を見つめた。


「行けるか、参号」

「はい」


 即座にはっきりと応(いら)えを返した

 晴明は満足げに口角をつり上げる。


「よし、行くぞ」

「行くって――――どこに」

「仕事だ」

「仕事って、今からですか」

「そうだ。寝惚けて迷惑を掛けるなよ。――――でなくば、澪が消えるかもしれん」

「え?」


 晴明は、彩雪を強く見据え、もう一度「行くぞ」と告げた。



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