※※注意!!



 女性は、その手に赤と蒼の勾玉を浮かべながら、すっと目を細めて頷いた。
 形良い薄い紅唇を引いて浮かべた微笑みには、確かに晴明の面影がある。


「妾(わらわ)は、葛葉(くずのは)……」

「葛葉……さん……」


 辿々しく反芻(はんすう)すれば彼女は優しい笑みが返ってくる。
 つられて表情を弛めた彩雪に彼女は玉の一つを差し出した。

 真っ赤な勾玉だ。


「これを、わたしに?」


 無言の首肯。
 彩雪は内部にて複雑な光が揺らめくそれを大事そうに持ってぎゅっと握り締める。温度は感じない。冷たくも温かくもなくて、何だか不思議な感じだった。

 胸に寄せると、不意に勾玉が鳴動する。彩雪には勾玉が歓喜しているように思えた。
 勾玉の震えが大きくなって持っていられなくなる。
 思わず手を開くと、それは宙に浮いた。


「あ……っ」


 勾玉は赤い粒子となり、彩雪の胸へと侵入する。
 己の中に溶け込んでいく、奇妙な感覚は擽(くすぐ)ったくて、全身に光が灯ったみたいに温かくなる。嗚呼、この温もりは力だ。勾玉の持つ力。
 心地良い感覚に、深く深呼吸した。

 二度目の深呼吸をすると、力が一瞬胸を締め付ける。そこにぶわりと吹き出したのは、切なる想いだ。
 これは葛葉の願い。
 吾子を守らんとして、与えてしまった喪失の痛み。吾子を苦しめてしまった、己の至らなさの懺悔。

 気に病むな。
 お前は悪くない。
 どんなに語りかけただろう。
 しかし、後悔に苛まれる吾子には届かない。
 ただただ、無力。

 彼女は、彼に幸せになって欲しかっただけなのだ。
 人としての幸せを享受し、笑って生きていて欲しかっただけなのだ。
 母が子に望むのは、子の死するまで続く幸せのみ。
 死した後も、それは変わらない。
 晴明は、大切な、大切な妾のややこ――――。

 葛葉は彩雪の頬をそうっと撫でた。


「あの子のこと、頼んだぞえ……」


 そなたなら。
 彼女は彩雪から離れ、片手を薙ぐ。


「……そなたなら、あのお方の娘、澪標(みおつくし)も、きっと――――」

「え?」

「どうか、澪標も、守りたもれ……」


 葛葉はそう言って、するりと、風に掻き消えた。

 白の空間に残された彩雪は、葛葉の言葉を繰り返す。
 みお、つくし?
 澪標って誰?
 問いたくても、答えてくれる者はいない。


「澪標って……」


――――その時である。



 鬼様 鬼様 

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを



「……歌?」


 それは物々しい合唱であった。
 低い声が無数に重なり、呻吟(しんぎん)のような不吉な歌だ。
 同じ歌詞を繰り返すその歌を聞いているうち全身が凍り付いていくような感覚に、彩雪は己の身体を抱き締めた。



 鬼様 鬼様 

 右腕から 左腕へ

 右足から 左足へ

 最後に 首を切り落とし

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 釜へ 投げて奉じよ

 胴は 開いて 臓腑

 一つずつ 一つずつ

 鬼様の 川へ 流して奉じよ

 我ら 鬼様の 永久なる僕

 鬼様 鬼様

 とこしえに とこしえに

 健やかなるを 雄勁(ゆうけい)なるを



 何なの、この歌。
 聴きたくない。
 聴いていたくない。
 耳を塞ごうと両手を解いた。

 けれども一瞬だけ――――歌の中から高くて穏やかな声が聞こえたのだ。


「……たい……痛、い……痛い……」

「……この声、」


 首を巡らせて周囲を探すと、少し離れた場所に、見慣れた姿が。
 後ろ姿だが、着物は薄汚くて粗末な物だが、あの後ろ姿は、あの髪は……。


「澪!!」


 彩雪は彼女を呼んだ。
 駆け寄ろうとし、


 驚愕に足を止める。


――――落ちた。


「え……」


 落ちた。
 落ちた。
 右腕から、左手が、順に。

 澪はよろめき、前に倒れ込んだ。支える両腕が無い為に顔面から地面に倒れ込む。
 刹那、世界はまた変わった。

 暗い。満月の夜だった。
 俯せだった筈の澪が仰向けに横たわるのは石造りの巨大な祭壇のような台。元は白かったのだろうけれど、大部分が赤黒く染まっている。一体、どれだけの血液が、あの祭壇に染み込んでいるのだろう。考えるだけでもぞっとする。

 祭壇の周りには、大勢の人間がいた。皆病的に窶(やつ)れ、中には異様に腹が膨れ上がっている者もいた。
 彼らは同じ歌を呪言のように繰り返している。
 澪は切断された両の肩口から大量の血を流している。けれど彼女は何も言わず、何もしない。

 助けられない――――彩雪は分かっていながらも祭壇の側で澪の右足に向かって鉈を振り上げた老人に駆け寄り手を伸ばした。掴もうとするがすり抜ける。
 ぼぎり、嫌な音がした。


「止めて……!!」


 ぼぎり。
 右足、左足。
 歌の順番で切り落とす。
 そして、奥にある大きな穴へと順に放り投げるのだ。

 その道の様子を見て、彩雪はとあることに気付く。
 気付いて、戦慄した。

 すでに乾いてはいるが、新しめの血痕と何かを引きずったような痕が祭壇から穴へと向かっている。
 澪の前にも、誰かが同じ目に遭っている。

 何、これ……一体何なの!?
 いや、この場に於いて彩雪と周囲の人間達のどちらが狂っているのか分からない。
 澪を呼んで何とかこの場から助けられないかと彼女に駆け寄る。助けられないって分かっていても、澪を放っておけない!

 歌の通りに切り落とされる。なら今度は首だ。首が切り落とされたら、今度は胴体の解体。
 人とも思っていない惨たらしい仕打ちだ。


「澪! 澪!!」


 呼びながら顔を覗き込み、彩雪は目を剥いた。

 澪は泣いている。
 でも、その目は虚ろだ。何も何も宿ってない。理性すらも。

 きっともう、こんな仕打ちをされていても、何も感じていないのだ。

 違う。

 わたしの知ってる澪はこんな顔をしない。
 食べることが大好きで、笑うとお淑やかで――――。
 こんな、痛くて悲しい顔なんて、しない!


「澪!! しっかりして、澪!! 今助けるから!」

「……ぇ」

「え?」


 澪の口が、微かに動いた。
 聞き取れぬ声に、彩雪は思わず耳を寄せる。


「……滅べ、滅べ、滅べ、滅べ」

「澪……」

「滅べ、滅べ、滅んで……全て、何もかも、消えてしまえば、良いんだ……」


 抑揚の無い、無感情な呪いの言葉。
 激情を乗せるよりもそら恐ろしかった。

 彩雪の知る澪とは、まるで違う。


「……、澪……」

「……醜い、醜いお前達なんか……消えてしまえ、消えてしまえ、消えてしまえ、消えて――――」


 ごきゅ。


――――ごろ、と。
 それは首を離れ右に転がった。

 彩雪は、その場に崩れ落ちる。
 血走った目が今にも眼窩(がんか)からこぼれ落ちそうな老人の手によってぞんざいに持ち上げられ女に手渡されるのを、茫然自失と見ている他無かった。

 彩雪は、澪の首を持って大穴へと近付く女へと手を伸ばした。届かないけれど、足はもう言うことを聞かなかった。


「待って……捨てないで、澪は……澪が……」


 おかしい。
 こんなの。
 苦しい。
 辛い。


 皆、狂ってる。


 澪を《殺して》、笑っているなんて、おかしいよ。
 両手を合わせて、一体誰に祈っているの?
 どうしてそこまで安堵した笑みを浮かべられるの!?

 どうして、どうして、どうして!

 どうして澪が《死ななければ》ならないの!?

 彩雪の側で、澪の胴の解体が始まる。


 ……これで。

 これで、鬼様が助けてくれる。

 この飢えからお救い下さる。

 ああ、良かった。

 この双子が生まれてくれて。

 この双子がいたから、私達は助かる。

 生け贄が生まれてくれて、本当に良かった。


「……生け、贄? 双子?」


 澪が生け贄で、双子?
 じゃあ先に落とされたのは、澪の双子だったの?


「そん、な……そこまで、して、」


 そこまでして、あなた達は生きたいの?
 信じられなかった。
 彼らの姿が、信じられなかった。



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