※注意



 そこはさながら氷の中の如く。
 張り詰めた空気は冷たく、彩雪の肌をちくちくと突き刺す。

 既視感のあるそれらは赤と蒼。存在を主張するかの如(ごと)発光して寄り添い合う。
 それらを見るのはもう、何度目になるだろうか。見て、触れる度に流れ込んだ衝撃に負け、逃げていた。目覚めと同時に忘れ、この空間に来ては思い出した。
 手を伸ばす。
 呼応するように鳴動する赤と蒼に指先が触れた瞬間、耳障りな音が鼓膜を突き抜け光と指の間から黒い靄(もや)が溢れ出す。

 玉響(たまゆら)。
 周囲が黒く染め上げられる。
 暗かった。何も見えなかった。
 感覚すらも閉ざされた。

 ……ああ、いや。

――――感覚は無いけれど、《痛い》と《冷たい》がここにはある。
 指先から全身へ容赦無く激痛は広がり、四肢を痺れさせていく。

 この靄の作り出した闇にも、既視感を覚えた。
 これは――――ああ、そうだ。最初にこの夢を見た時にも見た闇だ。
 その時と似たものを感じる。

 真っ暗な中、ふとぽつりと浮かび上がる光が二つ。
 靄に包まれたそれは、彩雪に何かを訴えかけている。

 誰かを求めて、わたし待っている――――彩雪は、どうしてかそのように感じられた。
 どうしてだろう。
 その靄に囲われる二色の光が、自身の身近な人物であるような錯覚を覚えた。
 はて……さめざめとした、月光の良く似合う風体の美しい青年は、誰だっただろうか。


『……詳しいことは言えぬ。だが最悪の場合、命に関わるかもしれん』

『それでも、私はお前に頼む。理由も何も言えぬ。だが、命を差し出せと。……私と、同じ時を生きろと』


 声音こそ、いつも通り。
 けれども彩雪の胸はキツく締め付けられる。
 ……ああ、そうだ。
 この声の人は、泣きそうな顔をしていた。
 わたしの主人なのに、悲しい顔をしてわたしの意思を訊ねてきたんだ。

 彩雪が自身と同じ時を生きる――――その選択を彼はあんなにも悔いて、あんな顔をして。

 とっても……とっても悲しい人。

 だからわたしが選んだんだ。
 わたしはあの人の式神だから。
 それが仕事寮の為になることだから。

 彼を――――晴明様を、信じることにしたの。

 脳裏に蘇るは彼の後ろ姿。
 行かなくては。
 わたしが、迎えないと。
 この空間で何度も見ては何度も逃げたあの赤と蒼に、歩み寄る。
 大丈夫。わたしは行ける。

 胸に手を置き、深呼吸を繰り返す。
 大丈夫。わたしは行ける。
 仕事寮の皆に、沢山力を貰ってるじゃない。
 行けない訳がないよ。

 痛いけど、寒いけど。
 わたしは、真っ直ぐ前を見据えて手を差し出した。


「……今度は逃げないよ」


 彩雪は、靄の中へと手を入れた。



‡‡‡




 光に身体が貫かれると同時に、全身がざっと冷えた。
 指先から何かが怒濤のように入り込んでくる。


――――痛い、苦しい、悲しい、憎い。


 暗く泥に似た負の激情が彩雪の中でうねり、肉体も心も侵していく。
 激情に身体が破裂してしまいそうだ。
 彩雪は喘ぎ己の身体を守るように抱き締めた。肩を掴む手は爪を食い込ませ、肉を抉る。痛みが無いのは、それ以上に激情が痛くて、苦しくて、悲しくて、憎いから。
 わたしがわたしでなくなってしまいそうだった。

 これは何?
 これは――――何?

 助けて、逃げたい、誰か――――!

 彩雪はそこで、大きく身体を震わせた。
 このまま、逃げる?
 自分の中でもう一人の自分が問いかける。
 また、逃げる。

 ……。

 ……。


「……ダメ、だから」


 逃げない。
 唇を噛み、顔を上げた。大きく息を吸う。

 逃げたら後悔するよ。
 うん。きっとそう。
 だから逃げちゃダメだよね。
 逃げないって言ったんだもん。
 ちゃんと、迎え入れるって決めたもん。

 胸に力を込める。
 この靄が何で、どうして痛みを伝えてくるのか――――。

 それを見定めないと、赤と蒼には触れられないよ。
 そうだね。でないとあの人を救えないよね。
 大丈夫。
 大丈夫。


 わたし、ちゃんと、もう逃げないよ。


 わたしは、前を向き、靄に決意を込めて笑いかけた。

 瞬間、闇が弾ける。
 黒から白へ。
 白から、有彩色へ。

 視界を埋め尽くす新しい世界の中で、寄り添う影。
 片や美しい女性。
 片や、大きな獣。

 女性は、穏やかな顔をしていた。猛々しく自我の無い獣のあぎとに細い身体を挟まれてなお、しずしずと己の運命を受け入れる。
 その召し物は嘗ては淡い色をしていたのだろうが、今や彼女自身の血で花が咲き、じわりじわりと形を崩して広がっていく。やがて袖まで真紅に染まると、血の雫が今度は黒い地面へと吸い込まれていく。

 ……嗚呼、血の池だ。
 彼女の足下に真っ赤な池がある。今もなお彼女の身体から作られていく小さな池。
 獣が、離れる。
 女性は池に座り込んだ。

 大きな牙に穿たれた無数の穴から、脈動に合わせて真っ赤な液体が零れ出る。それはとても鮮やかだ。恐らくはこの場で一番映えている色だろう。

 弱まっていく。
 彼女の命は、次第に流れ落ちていく。
 獣はもう一度、今度は違う場所に牙を立てた。何かを壊さなければ収まらない、凶悪な衝動を持て余した獣は女性を壊そうとする。

 女性は一度大きく痙攣すると、数度喘ぎ――――微笑んだ。
 右手を伸ばし獣の胸に押し当てた。

 その瞬間そこに埋め込まれた光を、彩雪はしっかりと見た。

 光は突如膨大し、獣の身体を包み込んだ。
 ややあって、自我が無かった瞳の奥に、ぽうっと灯る理性。
 それを合図に光は急速に弱まった。

 同時に獣の巨大な体躯も変化する。ぼき、ばき、と骨が変形する嫌な音がする。
 かくして四本足の化け物は、一人の青年となった。


「……」


 青年は茫然自失と、己の状況を把握出来ずにいた。
 倒れ伏す女性に目を向け、瞠目。
 大きく震えた身体に、揺れる美しい長髪。

 見慣れた人物の、幼いかんばせ。


「……晴明」


 女性は、か細い声で彼を呼んだ。慈母の如き微笑みを浮かべ、歪に砕けた身体の動かし左腕を伸ばす。


「あ……」


 晴明は、掠れ震えた声を漏らした。今にも見開かれた目の端が裂けて、血が垂れてしまいそうだ。

 女性は微笑んだまま。愛おしい存在を見つめるかのような柔らかな眼差しを晴明へ注ぎ続ける。
 彼女の手がようやっと晴明の身体に触れた。ぎこちなく撫でながら上へ向かい、頬を優しく撫でた。


「そう、晴明と……。それがそなたの、人の世での名」


 妖狐としてではなく、人として、幸せになりたもれ。
 それは、慈母の願い。
 一人の母親が、一人の息子に願う、とても強い願い。
 女性はもう一度晴明を愛おしげに呼び――――腕を落とした。


 慈母は、事切れた。


「……あ」


 白銀の髪が、赤に浸食される。
 白磁の肌に、幾つも赤い花が咲く。

 青年は不思議そうに彼女を見下ろした。触れればまだ、温かい。

 けれども、段々と、温もりは消えていく。

 命が無いから。


「あ……ああ……」


 青年は、女性の遺体を凝視したまま小刻みに痙攣する手で女性が触れた胸に爪を立てた。

 その奥には、はっきりと感じられる異物。赤と蒼の、二つの勾玉。
 遺体と化した女性がこれを自分の体内に埋め込んだのだと青年は知る。

 知って――――、


「――――うああああああああああ!!」


 悲しい悲しい、赤い悲鳴が空虚を揺るがした。



‡‡‡




「……あ」


 彩雪は我に返って己の頬を押さえた。
 いつの間にか泣いていたらしい。

 見慣れた白に包まれていることに気付き、彩雪は周囲を見渡した。
 あの凄惨な場所は、もう片鱗すら何処にも見受けられない。


「今の……」


 わたしは知っている。
 女性が呼んでいた『晴明』は、彩雪の主だ。
 きっとあれは晴明の記憶。彼にとって深く穿たれた傷。

 愛する人を自らの手で殺めた彼の、あの絶叫が――――脳裏に残響として残っている。

 あの靄は、晴明の悲しみの欠片だったのだと、彩雪は思った。
 靄と勾玉が見せた記憶の中にいた女性は、彩雪がご神木の側で何度も出会っているあの絶世の美女だ。

 彩雪は、後ろに気配を感じて身体を反転させた。


「……貴女は」


 今まで彩雪以外誰もいなかった世界。
 けれど今は、一人の女性が立っている。


 透ける白磁の肌。
 淑やかに煌めく白銀の髪。
 頭頂にぴんと立つ獣の耳。
 どんな人間にも到達し得ない美貌を持つ女性。
 嗚呼、やっぱり同じ。


「晴明様の……お母様?」


 恐る恐る、彩雪は彼女に問いかけた。



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