澪は走った。
 己の足が泥塗れになっても構わずに抜かるんだ土地を走り抜けた。

 本人は知らぬが、澪が今までいた場所は右京の西南、桂川の作る湿地帯によってなかなか宅地化されず、人間もほとんど寄りつかぬ区域であった。が、京では禁止されてはいるものの、農地として使用する人間もいないではない。
 ほぼ人目に付かぬこの一帯は、明るい場所を好まぬ者が、人間、生き物問わず集う。

 あの異形も、この地に住み着いているのだろう。
 もしかすると、澪が隠れていた廃屋も、嘗(かつ)ては隠れた農民として人が暮らしていて、異形に食われてしまったのかもしれない。

 源信と見た京の都の裏のまた奥底を、澪は今華奢な身体で体感していた。
 本能的な恐怖は、源信に手を引かれて帰った大きな道に戻れと叫ぶ。
 とにかく人の多い場所に。
 この澱んだ風の吹き荒ぶ汚濁の地から離れなければ。
 ひたすらに走り、光の無い夜闇の中、澪はひたに人の姿を求めた。

 けれども、湿地を抜けて家屋が見られる区域に入っても、人間はとんと見つからぬ。
 当然だ。この墨に染められた世界に出る人間など、数える程。夜行性の動物も多かった森の中で暮らしていた澪はそれを知らなかった。人間も、夜行性の動物のように出歩く者も少なからずいると思っていたのだ。

 途中から漣に導かれ、朱雀大路に出る。
 だがそこも、人っ子一人いやしない。
 僅かに上がった呼吸に肩を上下させながら、後ろを振り返った。

 異形は、いない。

 危機は去ったのか――――安堵に吐息を漏らした、その刹那だ。
 漣が刃の鋭さを持って吼(ほ)えた。


 上。


 澪は顔を上げ、緩やかに瞠目した。

 満天の星空。そこから雨のように降り注ぐささやかな光を遮って、影が二度横切った。
 どおんと地響き。
 顔を落とせば目の前に二匹の異形。一様に長い舌をちらつかせて獲物を嘲笑う。

 重い腐臭が、鼻孔を抉った。
 思わず手で口と鼻を塞ぎ、澪は獣のように唸る。滅多に威嚇なんてしないけれど、狼がどうやって相手を威嚇していたのか、それを思い出しながら真似た。

 澪の前には漣。姿勢を低くし、相手の動向を窺っている。おの蛇もまた口を一杯に開いて威嚇する。

 この場に於いて、得策は逃避。
 けれど、何処まで逃げてもこの異形は追いかけてくるだろう。
 澪は異形の片方が前に出た途端にその場に座り込んだ。

 漣がそれに反応して一瞬だけ身体を震わせる。
 されど異形が更に前に出たのにすぐさま警戒態勢を正した。

 ずり、と後ろにずり下がると不意に前に出ていない片方の異形が後ろを振り返った。

 そして――――。

 白刃一閃。
 ぼとりとその首が落ちたのだ。



‡‡‡




 相方の変事に反応したもう片方の異形も振り返り首を擡(もた)げた。
 だが、それもいやにあっさりと斬り落とされて力を失う。べたりと地面に突っ伏し、熱い蒸気を発しながら《溶けて》いく異形らを凝視し、澪は握った砂を意味も無く異形に投げつけた。


「澪殿!」


 闇に慣れた目を凝らせば、異形の身体を避けて駆け寄ったのがライコウだと知る。抜き身の刀には異形のものであろう黒い血液が付着していた。
 それをじっと見ていると、ライコウはそれに気付いてはっと足を止めた。澪に背を向けて刀の血を振り払い鞘に収めた。

 澪はその間に立ち上がり、早くも原形を留めていない異形を見つめた。


「無事か? 何処か怪我はしていないか」


 改めて駆け寄ってきたライコウに、澪は抱きついた。
 襲われて初めて見つけた人間が、ライコウだった。
 ようやっと見えた人に安堵した。

 ぎゅっと腕に力を込めると、ぎこちなく頭を撫でられた。


「もう心配は要らない。アヤカシは拙者が打ち倒した故」


 何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
 ただ、声音はとても優しい。
 腰に漣がすり寄ってくる。恐らくは澪を慰めているのだろう。
 ライコウから離れて漣にも抱きつくと、頬摺りされた。


「源信殿が捜しておられた。戻ろう……と言っても、伝わらぬのだったな」


 顔を上げると、困った様子で首筋を撫でるライコウは、周囲を見渡して首筋から手を離す。
 おおと声を漏らしてその手を天へと突き上げ左右に大きく振った。

 闇に紛れ、青が駆け寄ってくる。
 それは人の世に出てから最も多くの時間を過ごしているだろう人物で。


「げんしん」


 ぽつりと、漏らした。
 漣と小走りに駆け出して、青の抱きつけば背中を撫でられる。


「ああ、良かった。無事だったんですね。源様。ありがとうございました」

「いや……拙者が通りかかって良かった。アヤカシに襲われていたのだが、大きな怪我は無いようだ」


 ライコウの言に源信の顔が変わる。
 澪の頭を撫でて、屈み込み目線を合わせる。


「すみませんでしたね。わたくしが目を離してしまったばかりに、怖い思いをさせてしまいました。漣さんも、澪の側にいて下さってありがとうございます」


 漣は鳴いて、顔で源信の脇腹を軽く押した。彼なりの気にするなという意思表示だろう。
 源信は漣の頭を撫で立ち上がった。


「では、帰りましょうか。源様も、遅くまでわたくしの不始末に付き合っていただいてすみませんでした」

「いや、構わぬ。宮が仕事寮で澪殿の面倒を見ると決められた以上、拙者も出来る限りのことはするつもりだ」


 言って、ライコウは苦笑する。


「では、拙者はこれにて」


 頭を下げて、彼は足早に帰路を辿っていく。

 澪はそれを見送って緩く瞬きした。


「さあ、帰りましょう。遅いですが、夕餉にしましょうね」


 優しい手に引かれ、歩き出す――――……。



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