弐
異変を、感じた。
微かな胎動は、急激に強まっていく。
澪は足を止めはっととある方向に向き直った。
感じる――――声を、怨嗟(えんさ)の唸りを感じる。
肌がびりびりと痺れ鳥肌を立てた。胸の奥がきんと冷たく張り詰めた。頭の奥でぐわんぐわんと何かがのたうち回った。
その全てに、澪ははらりと涙を流す。
澪の異変に気が付いた源信が血相を変えて澪の顔に触れた。
澪はその手をやんわりと剥がして歩き出した。
「澪? 一体、どうし――――」
「金波、銀波。参ります」
「「御意のままに」」
「澪、」
「源信様。皇太子にお伝え下さいまし。急ぎ鏡と剣を持ち、罪人墓場へとおいで下さい、と」
片手を薙ぎ、澪は駆け出す。源信が後方で呼び止めるも、彼女は一度も足を止めること無く大内裏の朱雀門を抜けた。
跳躍して築地に乗り、風の如(ごと)駆け抜ける。身体能力はそのままだ。徒人(ただびと)には到底追いつけぬ速度で風を切る澪に、しかし金波銀波は後ろにぴったりとついて行く。
目指すは罪人墓場。以前仕事寮が複数のアヤカシと対峙した場所だ。
澪は泣きそうな顔で急行する。
やがて生活感のある家屋が失せ、廃墟を呑み込まんと鬱蒼と生い茂る木々、雑草の中へ身を投じる。澪の身体よりも高い草木を、前に出た銀波が大剣で薙ぎ払った。一閃によって生まれた暴風が、前方のそれらすらも押し退ける。
近付けば近付く程、今までよりも濃密な陰の気を肌に感じた。
嗚呼、この気配。
あの方が目覚めたのでしょう。
――――きっとこれは、ただの目眩まし以外の意味を持たない虚しい《目覚め》。
豪傑たりながら、深い悲しみと憎悪の中に無情にも果てた男。
その人物の名を澪は知っていた。
その人物の功績を澪は知っていた。
彼らを、一度迎え入れたから。
眼前に現れた巨大な岩を駆け上り、高く跳躍する。
そして、見つけた。
この夜闇よりも黒い気をまとった、逞(たくま)しくも物悲しい――――嘗(かつ)ての面影の失せた継ぎ接ぎだらけの《彼》を。
彼の背後に飛び降りた直後、彼は振り向き様に澪に向けて刀を振るう。銀波が受け止め澪は金波と共にその場を離れた。
澪達が離れたのを確認して、不気味に蠢く闇を操る彼へ銀波が猛攻を仕掛ける。
「金波。弓を貸して下さい」
手を差し出すが、金波は難色を示した。
「ですが今の澪様は、三種の神器が無ければ、」
「構いません。じきに届きます。今は、あの方のまとう邪気を少しでも抑えなければ、余波が都に及びます。私はそれを阻むのみ。あの方を救える程の力が戻っていないとは、私自身がよく分かっております。あなたには私と銀波の援護をしてもらうことになりますが、よろしいですね」
「……はい」
金波は澪の手に、己の背負っていた弓を載せた。
澪はそれをしっかりと握り締め、金波に礼を言う。にこやかなそれはすぐに引き締められた。
矢を持たずに弦を引き、離す。
その音は空気を震わし一体に響いた。
一瞬、彼の周囲に凝縮された闇が震え、一部が薄れる。けれどすぐに戻った。
彼は銀波を薙ぎ払い澪に狙いを定めた。地面に刀を突き刺して前方に大きく切り上げる!
雷のような轟音が響いた。切り上げた目に見えぬ力によって地面が割れ澪達に襲いかかる。
金波が澪の身体を抱き上げ高く跳躍する。
その半瞬後、不可視の力が二人のいた場所を通過した。
その先にある大岩を、粉砕する。
「澪様」
「……あまり、効果はありませんか」
着地して下ろされ、両手を見下ろす。
やはり三種の神器が無ければ、鳴弦(めいげん)でも満足に浄化は出来ない。
己の思う以上に、力が無いのだ。
けれどここに来た以上は何としても彼を抑え込んでいなければならない。
幸いここまで澪の親しんだ《気》が濃密ならば、少なくとも仕事寮の者達が駆けつけるまではあの獣に戻ることはあるまい。
澪はもう一度、弦を鳴らした。一度ならず繰り返し、何度も何度も、闇に再生する暇を与えずに鳴らし続けた。
彼は銀波を振り払う度に澪を殺そうとする。その全てを金波が澪を抱き上げて回避した。
闇は依然強大なまま。
これでは余波が及んでしまう。
アヤカシが暴れ出すかもしれない。そうなれば仕事寮はこのお方にばかり構ってはいられなくなる。
神器から貰い受けた力はもう底をついた。
残るのは、獣の自分が暴走させてしまわない為、晴明達に気付かれない為、自ら身体の芯に封印した力のみ。鳴らす度、自ら緩くした封印から少しずつ少しずつ使っていく。
この力が底をつけば――――澪は消失する。
仕事寮が間に合うか、澪が力尽きるか。
それは運次第だ。
「澪様、あまり立て続けに鳴弦はお控え下さい」
「いいえ。まだ大丈夫です。まだ……行けます」
また、鳴らす。鳴らす。鳴らす。鳴らす。鳴らす――――……。
‡‡‡
……嗚呼、やっと少しは弱まりましたか。
何度鳴らしただろうか。指が痛い。ひきつって動きにくい。
けれども闇の胎動は少しだけ弱まっている。
このまま続ければ、地道に削って行ける筈。
荒い呼吸を繰り返し、澪はまた弓を構えた。
されど、金波が見かねて止める。
「一旦お休み下さい。俺の気を取り込んで――――」
「兄貴!!」
銀波の鋭い声に、澪は反射的に顔を上げた。それを認めた瞬間金波の身体を突き飛ばす。
「澪様!!」
「何やってんですか澪様!!」
よろめいた金波が手を伸ばすも彼は金波の腕を振り下ろした刀で切断する。飛来した腕を、澪は受け止め胸に抱えた。
数歩後退して彼を睥睨(へいげい)する。
「……どうか、お鎮まり下さい。お戻り下さい。皆様を放っておいてはなりません。お戻りになり、《あちら》で皆様をお導き下さい」
強い声音で嘆願する。
少しでも届いて欲しい。
届いて、正気に戻って。
そう強く願う。
されど。
歪(いびつ)なかいなが、持ち上がる。妖しい月光を禍々しい刀身が反射し狂気的な光を宿した。
「お戻り下さい。あて――――」
「澪!!」
それは一瞬のことだった。
右から飛来した火球が彼の頭部に当たる。
よろめいた隙に澪の身体はまた同じ方向から現れた人影に掬い上げられるように抱え上げられ銀波に支えられている金波のもとへ駆け寄る。
彼を見上げ――――澪は茫然と呟いた。
「ライコウ、様……」
「……間に合ったか」
精悍な顔をしたライコウは、安堵した風情で表情を弛めた。
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