和泉の勧めで、澪と金波銀波兄弟は源信と大内裏の中を歩いていた。

 澪は源信と距離を置こうとした。
 けれども、和泉も彼も、その距離を優しく縮めてくる。
 彼らの態度には戸惑うばかりだった。


「あの……源信様」

「はい、何でしょう」


 澪は数回口を開閉させた。けれども声はなかなか出てこない。
 「……何でもありません」結局は、首を左右に振る。

 源信はにこやかに頷いた。何も追求しては来ない。

 金波銀波が気遣うように顔を覗き込んでくるのに、苦笑を浮かべて見せた。
 あなた達は、どうして《私》を受け入れられるの、と。
 今、彼女はそう問おうとした。答えを聞くのが急に怖くなって、訊くのを止めた。

 彼には、それすらも見透かされているのかもしれないと思うと、胸がざわざわと落ち着かない。獣のように本能に忠実だった澪のことを、源信は理解してくれていた。
 仕事寮の中で一番世話になっていたのが源信だ。
 だから、彼から、《一番怖い言葉》を聞くかもしれないのが、とても恐ろしい。

 源信は糺の森の異界で、残ろうとした澪を一緒に連れて行った。ここに、一緒に帰ってこさせてくれた。
 あれこれと、澪に色んなことを教えてくれた源信はいつだってとても優しい人だ。澪に対してではない彼の優しさがそうさせたのだとしたら、それは寂しい。

 澪達は家族というものを知らない。
 知りたいと思っても、たった兄以外誰も澪達個人を見ようとはしてくれなかった。自分らしく生きるのを許してはくれなかった。
 皆が皆、澪達を自分が生き残る為の供物(くもつ)としてしか見てくれなかった。

 だから、源信のような人物が、父と呼べるのかもしれない――――そう思っていたのだ。
 源信が澪にとっての《参考》だった。

 父親、のような人だと慕っていた人に拒絶されるのは、辛いだろう。
 過去とは比べるべくもない、この過ごしやすい世界が離れていくようで、胸が痛むやもしれぬ。
 そんな不確定な懸念を抱え、澪は押し黙った。もう、彼を呼ぶようなことは無かった。

 長い長い沈黙だった。
 源信も話さない。澪も話さない。澪が話さなければ金波銀波も決して話さない。
 ただただ黙して地面を踏み締めるだけだ。
 このまま気まずい沈黙が続くのだろうか。ぼんやりと、思う。


――――されども。


 不意に、源信が足を止めたのである。

 澪も足を止めれば彼はゆっくりと彼女に向き直った。反射的に全身が強ばって緊張する。

 源信は彼女を宥めるようにふんわりと、真綿のように微笑んだ。


「澪。一つ、お聞きしてもよろしいですか」

「……はい」


 多分澪の正体だろう。
 だが、それを今彼に教えることは出来ない。
 断る言葉を考えつつ、澪は彼の問いを待った。

 が、だ。


「わたくしのもとで生活していますが、何か不自由がありますか?」

「……、……はい?」


 澪は間の抜けた声を発した。
 まったく予想外の問いだった。
 不自由が無いか、だなんて……そんな、取るに足らないことじゃないか。
 顎を落として源信を見上げると、後ろで銀波が主張する。


「俺も飯喰いてぇっす!」

「要りませんそのまま餓死させますので」

「何で兄貴が却下すんだよ!?」

「ああ、そう言えば顔の方でしか食べていませんでしたね。分かりました。今度は銀波の分もちゃんとご用意致しましょう」

「やったー! これでやっっと現世の喰いもんが食える!!」


 両手を挙げてはしゃぐ銀波を振り返れば、丁度金波が拳で彼のこめかみを殴りつける。銀波の悲鳴の後、何度目かの喧嘩を始めてしまった。すぐに源信が仲裁に入る。

 澪は慌てて待ったをかけた。


「あの、源信様。そのようなことをお訊ねになられて、一体……?」


 恐る恐るといった体で問えば、源信は恥ずかしそうに苦笑い。


「すみません。年頃の女性の面倒を見るのはなかなか難しくて、わたくしも色々と気遣いの至らぬ部分が多かっただろうと。あなたはまだ獣のようでいましたからこちらも気を張りすぎることは無かったのですが、もしわたくしの知らぬところで不自由に思っていたらと以前から思っていましたので。お訊き出来るのは今だけでしょうから」

「……ええ、と」


 もっと別に訊くべきことがあるのでは……?
 困惑して首を傾ける。

 源信は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。


「あなたのことは、誰も不審に思ってはいませんよ。ですから、あなたの話したい時に、あなたのことを教えて下されば良いのです」

「……しかし、私は、」

「あなたは、澪なのでしょう? でしたら、わたくし達は仕事人はそれで構いません」


 澪の言葉を遮って、源信は優しい言葉をかける。
 手を離し、双肩に両手を置いた。


「食べることが一番大好きなのは、変わらない。わたくしは、それだけで十分です。恐らくは宮様達もそうでしょう」

「……っ」


 ……彩雪か。
 彼女が話したのだ。
 視線を下に落とすと、小さく笑われる。

 食べることが大好きなのは、仕方のないことだった。
 でも、指摘されると何だか恥ずかしく思えてくる。
 肩を縮めていると、源信は澪の身体をそっと抱き寄せた。


「大丈夫です。あなたも、金波も銀波も、ちゃんと仕事寮にいて良いのですよ」

「……」


 背中を宥めるように軽く叩き撫で、源信は諭す。

 澪は唇を引き結び、押し黙った。
 色んな感情が、胸の中で渦巻いている。



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