仕事寮に戻り、まずは澪の手当てに取りかかった。

 彩雪は血が出ていない謎はそのまま放り捨て、流血過多にならずに済んだことを有り難く思うことにした。未だ居心地悪そうにする澪は終始そわそわしていて、時折源信に窘められては慌てて謝罪していた。その間、晴明の袖をずっと掴みっ放しだった。

 晴明も邪険にはせず、治療が終わるまで彼女の好きにさせていた。

 その後に、ようやっと彼らは仕事の完遂を実感する。
 すると自然に和泉へと視線が集まっていく。彼の手には、草薙剣が握られたままだった。
 何故だろう。今までの雰囲気が払拭され、堅い意思のようなものが感じられる。

 これが皇(すめらぎ)となる覚悟なのかもしれない、と彩雪は思う。
 神器のうち二つも手に入れた彼は着実に皇位に近付いている。
 同時に自分達からも離れている。
 それが彼の佇まいから感じ取れてしまい、寂寥感(せきりょうかん)に胸が軋んだ。


「い……宮様」


 言い直してしまったのも、その所為だ。
 呼んでみて胸がすっと冷えるような感覚に襲われ鳥肌が立った。やっぱり、嫌だな。寂しい。

 彩雪の方を見た和泉に、咄嗟に笑顔を向けたけれど、彼は返事をしなかった。じっと彩雪を見つめ、だんまりだ。


「あの……宮様?」

「……和泉」


 ぼそり、と彼は言う。


「え?」

「呼び捨てでいいって、最初に言ったよね?」


 口角を弛め、片目を瞑ってみせる。
 その悪戯っぽい笑みは、いつもの和泉のもので。
 ……ああ、変わってないんだ。和泉は、何も。
 そう思った瞬間彩雪は肩から力を抜きほうと吐息を漏らした。一瞬だけ目頭が熱くなったが、涙だけはと耐えた。

 小さく頷き、彼の名前を呼ぶ。

 すると安堵したように彼は微笑んだ。

 暫く笑みを交わし合っていると、不意に背後から主の声。


「帰るぞ、参号」


 不機嫌に低い声にびくりとして振り返ると、柱に凭(もた)れ掛かった晴明がじとりと冷たく彩雪を睨めつけていた。


「帰るって……神器が揃うんだったら、これから色々と準備することがあるんじゃ……」

「その準備のためだ。さっさと来い」


 晴明はすげなく言うと、そのまま大股に歩き出した。
 かと思えば足を止める。


「……後はお任せいたします、御衣黄の宮」


 慇懃(いんぎん)な口調だった。
 和泉に対して畏まった態度の主を見るのは初めてで、彩雪は瞠目する。
 皇位継承者として敬意と信頼を見せる晴明に、和泉はにこやかに笑って頷いた。


「ああ、晴明。こちらは任されるよ」


 二人のやりとりを見ていて、彩雪は薄く口を開く。
 そんな彩雪に、晴明は冷たく、


「何を呆けている? 行くぞ」

「あ、はい! 待って下さい、晴明様!」


 晴明様……なんだか、機嫌が悪いみたい。
 今度こそ仕事寮を出て行ってしまった主を慌てて追いかける。

 どうしたんだろう?


「あ、式神ちゃん」


 部屋を出ようとした彩雪を、和泉が呼び止める。
 振り返ると彼は悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。


「晴明に謝っておいて」

「え? なにを……」

「今さっき、参号を一人占めにしてごめんって」


 ……。

 ……。

 ……。


「んなっ!」

「不機嫌の理由、たぶんそれだから。よろしくね」

「ほらやっぱそーゆー関係だったー。進展してるんならそう言えよ」

「い、和泉、銀波君まで、な何を言って、」

「参号!」


 部屋の外から聞こえる苛立った声に肩を縮める。
 晴明様の不機嫌の元が、わたしと和泉……?


「早く行かれた方がよろしいですよ、彩雪さん。あの方は、あの通り独占欲がお強い。殿方を焦らすのは、相手をよく見て、状況を考えてからにした方がよろしいですよ」


 にっこりと、澪が言う。さっきまでの戸惑いは何処に行ったのか、やや愉しげだった。銀波は、それはもういやらしくにやにやしているが。
 彩雪は全身から火を噴く思いだった。恥ずかしくてたまらない。

 彩雪はぷるぷると全身を震わせ、逃げるように部屋を飛び出した。



‡‡‡




 彩雪を見送った後、澪は腰を上げた。
 源信達に頭を下げて金波と銀波を残して部屋を出る。簀の子に出てほっと息をついた。

 息が詰まるのは、緊張の所為だ。
 気を遣って身体を縮めっ放しだったから全身が強ばってしまっている。晴明が露骨に可愛らしい嫉妬心を出してくれて、正直助かった。
 綺麗に手当てをされた手を見下ろし、ぎゅっと握り締める。

 このまま放置していたって、大丈夫、なのだけれど。

 仕事寮の人々はとても優しい。
 彼らの知る澪ではないのに、私をここまで連れてきて、手当てまでしてくれて。


『だっ、大丈夫! 多分……じゃなくって、絶対!』


 彩雪の必死な言葉が蘇る。
 大丈夫……確かに、大丈夫なのかもしれない。

 でも、人間は怖い生き物だ。
 仕事寮の仕事人達がこんなにも優しいのに、過去が私にそれを告げる。
 今の暮らしは、とても居心地が良い。

 けれど――――。


「風邪を引いちゃうよ」

「……、皇太子殿」


 和泉がこちらに近付いてくる。

 澪は振り返り、その場に片膝を付いた。
 すると、頭に手が載せられ、撫でられる。


「さっき、参号にも言ったよ? 呼び捨てでいいって」

「……いいえ。そう言う訳には参りません」

「澪」


 頬を挟み込まれ、少し強引に持ち上げられる。
 間近に和泉の顔があって、驚いてしまって身を軽く引いた。するとぐいっと顔を寄せてくる。


「恥ずかしがってるね、澪。参号みたいだ」

「……お戯れを、皇太子殿」

「和泉」


 彼ははっきりと強い口調で言う。

 澪は困惑したように瞳を揺らす。引力のある瞳を直視しつつ、和泉は呼び捨てを強要してくる。
 確かに以前の澪は和泉を呼び捨てにしていた。だが、だからといって以前と同じように接することは、澪には出来なかった。

 身を捩って逃げようとすると、少し乱暴に抱き寄せられた。


「大丈夫。皆今の君を拒んでないから。どちらの澪でいても良いんだ」

「……」

「君がしたいようにすれば良い。勿論、金波や銀波もね」


 《澪》を仕事寮に迎えたのは、俺達だからね。


「……ぁ、」


 そう言う和泉に、澪はただただ困惑するしか無かった。
 宥めるように背中を撫でてくる和泉の手は、獣であった頃の澪に対するものと全く同じで。

 どうすれば良いのか分からずに、身を堅くした。



○●○

 金波銀波のやりとりが、書いていてとても楽しかったです。



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