玖
「ここです」
言葉と共に金波は足を止めた。
彼らの向こうに聳(そび)えるそれに、彩雪は顎を落とした。
これって……。
ご神木?
注連縄をしっかりと巻き付けられた、彩雪の身体よりもずっと太い幹は上に伸び、枝葉を広げて緑の天井を作り上げる。そこから僅かにこぼれる透き通るような月光が、うっすらとその輪郭を浮き上がらせた。。
それはつい先程見たばかりの神木にそっくりで、思わず周囲を見渡してしまった。
それに、金波が表情を和らげて声をかける。
「ここは糺の森と合わせ鏡のように存在する異界。元々は糺の森と同じ姿をしていたのが今のこの様にまで変わってしまっただけのこと。こちらの神木と、外の神木が瓜二つなのはその証拠だ」
「あ……そうなんだ」
「要(かなめ)として双方は繋がってこそいるが、全くの別物と認識して良い」
金波は目を細め、澪の手を放し、代わり懐から取り出した小刀を持たせて彼女の背をそっと押した。
「澪様。神器の封印を」
澪は金波を見やり、微笑んで頷いた。
……あ、獣の澪じゃなくなってる。
いつの間に変わっていたんだろうか。
彩雪が見つめる中、澪が金波に片手を上げて軽く振ると、金波は畏まって一礼し、銀波に目配せする。
態度を改めた銀波も同様に澪を頭を下げて彩雪達の方へと歩いてくる。金波もだ。
澪は神木の前に立つと仕事人達に向き直り、和泉へと片手を差し出した。
「資格を持つ者、どうぞ、こちらへ」
静かに、誘う。
和泉はそれに頷き、ゆっくりと、しかし大股に澪へと歩み寄った。
ライコウもそれを従おうとするが、「貴殿には資格が無い」と金波に制された。
澪に近付いて良いのは、神器を持つ資格を持つ者のみ。
和泉がその手を取れば、細い手がしっかりと握り締める。そっと引いて神木の右手に回った。
澪はざらついた木肌を撫で目を細める。何事が呟き、和泉に笑いかけた。
そして――――。
ざくり。
何の躊躇も無く手の甲を小刀で貫いたのだ。
木に磔(はりつけ)にされた手からはだらだらと血が流れていく。
和泉が血相を変えて駆け寄り小刀を抜こうとする。
けれどもそれを視線で制し、澪は更に何事か詠唱した。そのさなかに自ら小刀を引き抜きその場を退く。
詠唱が止むと同時に、神木が《歪んだ》。
波打つように不気味に蠢いて形を変えていく。
不穏な蠢きに彩雪は思わず視線を逸らした。
間を置いて見ると、もう歪みは落ち着いていて、元の神木の姿に戻っていた。
……。
……いや。
剣だ。
古びた剣が、和泉の正面の木肌に深々と突き刺さっている。奇(く)しくもそこは澪が手を磔にした場所だった。
剣は仄かに発光し、己が存在を強調する。
あれが、草薙剣……でもどうして澪が?
澪を見やれば、彩雪の視線に気が付いて、唇の前で人差し指を立てて見せた。
「……さあ、皇太子殿」
掌からぼとぼとと血を流しながら、まるで諭すように声をかける。他人行儀な態度に和泉は一瞬だけ寂しげに眦を下げ、頷いた。
剣の柄を確かめるように握り締め、和泉は深呼吸する。
澪が笑みを消した瞬間、剣から大量の青白い光の粒子が放たれた。
爆発するように広がったそれはふとぴたりと停止し、和泉へと群がる。全身を覆い尽くし、浸透していく。
まるで和泉自身も発光しているかのようで、目が釘付けになる。
和泉は突然のことで驚いてはいるものの、剣からは決して手を離さなかった。
そして――――引き抜く。
引き抜くと同時光は急速に弱まり、失せる。
呆然と剣を見下ろしている和泉に、澪は無表情のままそっと歩み寄った。掌に痛みは無いのだろうか。大量の血が流れているままだのに、気にする素振りが見受けられない。
「この澪並びに金波、銀波。しかと見届けました」
「……、……抜けちゃった、か」
和泉の悲しげな微笑みに、澪は容赦ない。
「あなたは、人の世に於ける皇位継承者ですから。何をしようとも血の定めには抗えません」
「……澪」
澪の口調は突き放すように冷たい。
昼間の澪の姿も無い様に、彩雪は胸の前で拳を握り締めた。
和泉は澪を暫し見つめた後、徐(おもむろ)に仕事人達に向き直る。その時には、表情は引き締められていた。
「和泉……」
澪がそっとその場を離れる。彼女の側に金波銀波が寄り添った。
「……さて、と。じゃあ、戻ろっか?」
声音こそ普段のもの。
けれどもそこに立つのは、気軽に話しかけてはならない、雲上の人。
どうしてだろう、彼の表情を見た瞬間、名前すらも呼んではいけないような気がした。突然壁を作られてしまったような、寂しい感覚。見ていると胸が苦しくなる。けれども和泉の様子から目が離せなかった。
澪はその場から離れない。無表情に立って、和泉を見送る。
手当をしようと源信が話しかけると、彼女は頭を下げて一歩後退した。
「……澪?」
「またいつもの姿に戻るまでは、ここにおります故に」
にっこりと微笑んで背中を向ける。
ああ、彼女はまた気を遣ってるんだ。
仕事寮にとっての澪は今の自分ではないと、距離を置こうとしている。
わたしは大丈夫だと思うのに。
澪を呼ぼうとすると、源信が澪を窘(たしな)めるように呼んだ。彼女が逃げる前に真っ赤な手を取り、懐から取り出した手拭いで傷を押さえながら結ぶ。血は、もう止まっていた。あれだけの傷、流血が止まる筈がないのに。
「術を解く為とは言え、躊躇いも無く自分の身体を傷つけるのは感心しませんね。年頃の女性なのですから、もっと自分の身体を大事になさい」
澪は源信を見上げて瞠目した。
「え……あの、源信様」
「さあ、仕事寮できちんと手当てをしなくては。金波も銀波も、宮様に置いて行かれぬうちに戻りましょう」
「「はい」」
源信は澪の様子を無視し、傷ついていない方の手を握って優しく引く。
困惑しながらそれに続いた澪は横合いから晴明に扇で叩かれて「ひゃうっ」と身体を跳ね上がらせた。目を白黒させて晴明を見上げた。
晴明は無言で頷いて見せただけだった。すぐに背を向け、颯爽と歩き出す。その顔が思案深げに陰っていたのが、彩雪は少しだけ気になった。
けれども、今は澪だ。
「え、と……」
「参りましょう、澪様」
「金波」
「早くしないと、置いてかれちまいますよ。ねえ源信さん」
「ええ。それに手当てが遅れてしまいます」
澪は困り果てた様子で金波銀波と源信を交互に見る。
彩雪はそんな澪を呼んだ。にっこりと笑って、晴明よりも大きく頷いてみせる。
すると、彼女は寸陰固まって、ふにゃり、と眦を下げてぎこちなく微笑んだ。
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