金波と銀波に手を引かれて歩く澪を眺めてながら歩いていると、ふとした瞬間に空気が変わった。

 きんと張り詰めたそれは身体に容赦なく緊張を強いてくる。
 清浄――――過ぎる。
 そこから先は剰りにも清らか過ぎる。
 彩雪は足を止め、周囲を見渡した。

 景色こそ、今まで歩いてきた糺の森と変わらない。
 けれども全身が、五感が、ここは明らかな異世界であると告げてくる。
 ここは自分達の世界ではない。こんな清廉なる穢れ無い世界に自分達が入ってはいけない。この世界の地面を踏むことすら烏滸(おこ)がましい――――思わず、後退してしまう。

 この澱みの無い世界に抱くのは羨望と恐怖。
 乱してはならないと分かってはいるけれど、無垢なるこの世界に本当に自分のような矮小な者が足を踏み入れて良いのか不安で怖い。

 けれど、彩雪が足を止めていても、皆はずんずんと先に進んでいく。それが、この世界に相応しくないのが自分だけであるように思えて、孤立感が強まった。
 徐々に涙腺が熱と傷みを帯び涙を滲ませる。

 置いていかないで、そう心の中で叫んだ。

 足を動かそうにも恐怖に竦んだ両足は思うように動かない。
 動け、と頭は命令するのに。
 嫌だ、と身体は拒絶する。
 このままじゃ置いて行かれちゃう……!
 焦りに駆られても、無駄。

 途方に暮れて涙が落ちてしまった、その刹那だ。


 ばさり、と。


 頭上で大きな羽ばたきが聞こえた。
 瞬間弾かれたように、何かに引き上げられるかのように、顔が上を向く。

 すぐ側の樹木。その上の太い枝。
 三本足の黒い烏が、そこにいた。


「ぁ……」


 掠れた声がこぼれる。
 烏は彩雪を静かに見下ろし、翼を広げる。羽ばたいて飛び立つ。

 何がしたかったのかは分からない。
 けれども彩雪はそれに安堵を覚え、肩から力を抜いた。
 自然と、足が動く。

 嗚呼、今ので呪縛が解けた。
 彩雪は確認するようにその場で足踏みし、流れた涙を袖で拭って駆け出した。最後尾に追いつくと、晴明が彩雪を一瞥する。何も言わなかった。

 身体はちゃんと動いてくれている。良かった。もう、大丈夫だ。

 ……きっと。

 胸を撫で降ろし、彩雪は先頭を見やる。
 左右を固めた金波銀波と手を繋ぐ澪はまるで二人の妹。だが時折見える二人の澪を敬う丁寧な物腰が彩雪の印象を否定する。

 金波銀波は、まるで澪が自分の主であるかのように振る舞う。彼女を割れ物のように扱い、心から案じる。
 澪も獣の状態である筈なのに、それを平然と受け入れていた。

 この三人は、一体……。
 胸の中がもやもやする感覚に唇を引き結ぶ。
 昼間話した澪は、わたしの知っている澪だった。じゃあ、この二人はどうなんだろう。わたしの知ってる漣なのかな……?

 金波銀波の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、ふと銀波が彩雪を振り返る。
 目が合って軽く驚くと、彼はにんまりと笑って手招き。
 ……呼ばれてる?
 首を傾げながらも近寄ると、首に腕を回され引き寄せられる。


「ひゃっ」

「あんたさ、ぶっちゃけた話セーメイさんとどうなの?」

「え?」


 小声で話しかけられて彩雪はきょとんと
 晴明様とどうって……。


「男女の関係進展してんの?」

「んなっ!?」


 一瞬にして彩雪の顔が爆発したように真っ赤に染まる。
 だ、男女の関係!?
 わたわたと慌て出す彩雪に銀波は愉しげに咽の奥で笑う。

 まるで緊張感の無い軽佻(けいちょう)な弟に、金波は大仰に溜息をつく。繋いだままの澪の手を剥がし、自分の方へと丁寧に引き寄せた。


「澪様。こちらへ。馬鹿が移ります」

「馬鹿じゃねえっつの!」


 耳元で怒鳴る。大音声に耳が痛い。
 また口論を始める二人に、彩雪ははあと溜息をついた。

 ……が。


「だぁから兄貴は――――いてっ」


 銀波が言葉半ばで誰かに叩かれる。
 かと思えば首に回された腕が乱暴に剥がされ、首根っこを掴まれて後ろ強くへ引かれる。
 背中に庇われえっとなった彩雪は、見慣れた色の衣に目を見開いた。


「せ、晴明様……」

「無駄口を叩かずさっさと案内しろ。漣の方がよっぽどマシだ」

「そりゃそうだろー。俺蛇の方だもん」

「あ……ちゃんと分かれてたんだ」

「そうそう、ケツが俺」

「下品な言い方をするな阿呆」

「いっで!! ケツ蹴んなよ!! 兄貴も十分下品だろ!」

「愚弟よりは遙かにマシだ」

「セーメイさん!? ちょっと、こんな堅っ苦しい堅物よりもふにゃんふにゃんな俺の方が付き合いやすいと思うんですけど!」

「ふ、ふにゃんふにゃん……?」

「五月蠅いだけで鬱陶しいし目障りだ」

「ちょぉ……!!」


 銀波の反応は仰々しい。兄の金波とは大違いだ。
 何だか弐号みたいでうざったいけれど、この空気ではそれが少しだけ有り難かった。またこの世界の澄んだ空気に萎縮することが無くなるかもしれないと思うと、安堵出来るのだ。

 ぎゃいぎゃい騒ぐ銀波を苦笑混じりに見ていると、彼は晴明の目を盗んで彩雪に片目を瞑って見せた。
 それに反応をすると、今度は口の動きで大丈夫、と。
 蛇の時と同じだった。

 彩雪は銀波の気遣いに、またありがとうと、口の動きだけで伝えた。

 その後、晴明に睨まれてしまったけれども。



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