陸
式は片付いた。
周囲にはすでに式を成していた複数の紙切れは残っていない。風が全て攫っていった。
荒い呼吸を整えつつ、彩雪は舞布を折り畳んだ。肩に弐号が乗り、労(ねぎら)うように柔らかい羽で頭を撫でてくれた。
歩み寄った漣が気遣うように彩雪を見上げてくる。
「大丈夫だよ、ありがとう」
屈んで頭を撫でるとすり寄ってくる。
直後、背中に重み。漣に抱きついて転けるのを免れた。かと思えば弐号の低い呻きと共に重みが無くなった。
振り返って、澪が弐号の羽を銜えて立っているのに苦笑が漏れる。
「お腹空いたの? 澪」
こくり。首肯。
獣のような澪の姿に緊張もつい弛んでしまう。あちらの澪だったらどうなるだろうかと考え――――まず弐号を銜えはしないと結論に至る。
多分、漣と同じように、丁寧な物腰で案じてくれるんだろう。
立ち上がってぶらぶらと揺れる弐号を救出すると、笑いを含んだ和泉に呼ばれる。
彼は彩雪に労いの言葉をかけて、森の奥に視線をやった。
「少し休みたいところ、ではあるけど、とりあえず神木の前までは、一気に行ってしまった方が賢明だね」
彩雪は頷き、額に浮いた汗を拭った。
「大丈夫ですか、参号さん」
「だ、大丈夫です……」
この中で一番疲労しているのは彩雪だ。体力が無いし、自分でも分かるくらいに動きに無駄が多かった。でも、まだ行ける。大丈夫。
心配してくれる源信に彩雪は気丈に返した。深呼吸をして、胸を張ってみせる。それからちょっと笑って、
「さすがにちょっと疲れましたけどね」
「あまり無理はなさらないでくださいね? この先、何が起こるかわかりませんから」
「はい。……あ、源信さんも無理はしないで下さいね」
「ありいがとうございます」
口元こそ隠れているが、いつものあの慈父の微笑みが浮かんでいると分かる。
彩雪は右手に拳を握って己に気合いを入れ直した。
「恐らくはもう連戦にはなるまい。入り口が近い。漣とて、下調べの際にそれなりのことはしている筈だ。そうだろう」
晴明の確認に、漣はその場で跳んで鳴いた。それは肯定だ。
それを見、和泉はライコウに頷きかける。漣を先頭に、再び歩みを進めた。
彩雪は弐号を片腕に抱いたまま、彼らに続く。
‡‡‡
足音も、湿った地面に吸収される。
月光すらも天井を成す枝葉に遮られた森の中を、慣れた夜目だけを頼りに進んだ。
ふわふわとした腐葉土の感触は不安定で、本当に地面を歩いているのか分からなくなってしまう。
何もかもが曖昧模糊とした世界。
はぐれまいと必死に目を凝らして慎重に歩いていた彩雪は、ふと、ぽっかりと穴が開いた自然の天井から差し込む月光に照らされる、森厳(しんげん)な佇まいの神木を見つけ薄く口を開いた。
その姿は、朝と変わらない。……いや、神聖さ、冷厳さが更に際だっているようにも思える。
彩雪は怖じ気付いてしまった。思わず足を止めると、源信がまた気遣ってくれた。
それに大丈夫だと返した彩雪は、ふと視線を巡らせた。
朝、彩雪はここに来ている。
けども神木の側まで生きながら、その荘厳なる姿をしっかりと視界に収めるまでには至ってなかった。
理由は、一人の女性――――。
「え……?」
視界の端に淡い光を認め、ぎょっと首を巡らせる。
月の妖しくも儚い光に似ている。けども何処か異質。
動く視界の中に一瞬だけ、見慣れた女性の姿がよぎった――――ように思えた。
あの、神木に使える巫女の如、そうっと寄り添い立つ、狐の耳を持った筆舌に尽くし難(がた)い程の美貌の女性。
彼女をしっかりと捉えようとした時にはすでに遅かった。
もう、そこには何も無い。
「……気のせい、かな?」
こてんと、彩雪は首を傾げた。
「どうかなさいましたか、参号さん?」
源信にまた気遣わしげに話しかけられ、彩雪ははっと我に返った。何でもないと、ふるふると首を左右に振る。
今の女性のことを話したとしても、きっと源信には信じられないだろう。夢にしては鮮烈だったが、かといって現(うつつ)だと断言も出来ない。
ただ周りを確認したかっただけだと嘘をついた。
「それならいいのですが……何かあったのなら言ってくださいね?」
その言葉に想起するのは、仕事寮奥の間でのライコウと和泉の様子。
……今のわたし達、あの時の二人に似てる。そんな風に彩雪は思った。
なら、彼も人には話せないことで、あんなにも態度に顕著(けんちょ)に表れるくらいに悩んでいたのだろうか?
ライコウは、和泉のすぐ側を歩いている。
彼は先の戦いでは普段通りの勇ましい姿を見せていたいたけれど……。
でも忠誠を誓う和泉にまで隠す程の悩みとは、どんなものなのだろう。
もやもやする。ライコウのことが心配だが、彩雪には聞き出せないだろう。悩んでいるのを心配するだけでいるのは、歯痒い。
ふと、漣が足を止めた。
身を翻して――――身を低くする。
まるでこちらを威嚇するような様に和泉が困惑したように呼んだ。
直後だ。
彼は、また咆哮した。
大気を震わす程の大音声はやはり不吉。断末魔のようにも思え、彩雪は思わず己の身体を抱き締めぶるぶると震えた。
「宮!」
「ライコウ、止めろ。害は無い」
柄に手をやって和泉の前に立つライコウを、晴明が制す。
彼は手印を切って何事か呟くと、扇を振るった
その上に載せられた札から、淡い光放つ蝶が生まれる。
蝶はひらりと弾むように舞いながら咆哮を止めた漣の額に留まる。
刹那――――その光が漣に吸収され、今度は鵺の身体が発光し始めた。
目を突き刺すような強烈な光に彩雪も、他の仕事人達も目を瞑って腕で庇った。
視界が瞼越しに伝わる光によって真っ赤に染め上げられる。
それが収まるのを待って目を開ける。
「……えぇっ!?」
頓狂な声を上げたのは言わずもがな、彩雪である。
目を瞬かせ、食い入るようにそれを凝視する。
「え……、あの、えええ?」
「お前、落ち着けよ」
呆れた風情の壱号に、彩雪は前方を指差し冷や汗を流した。
「で、でも壱号君……っ!」
あれを見て驚かない筈がないよ!!
そう訴える彩雪の指が示す方向――――漣がいた場所。
そこに、漣の姿は無く。
代わりに、瓜二つの顔をした少年が二人、大剣と弓を背負って仕事人達と対峙していた。
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