木々のざわめきは、まるで警告だ。
 吹き荒ぶ風が仕事人達の身体を容赦なく打ち据え、弐号や彩雪などは足を取られた。

 異様な風の強さは彩雪達を拒絶しているかのよう。
 これから危険なことが待っている、そんな気がしてならなかった。
 今朝もこの森に訪れた。けれども朝の爽やかなれど張り詰めた神聖な姿は面影も無く、迫り来る濃密な闇が蠢く巨大なアヤカシに見えて足が竦(すく)んだ。

 どうして、こんなにも違って見えるのだろう。
 守り神のいる森だのに、奥には荒々しい鬼神が鎮座していてもおかしくない。
 呑み込まれてしまいそうな恐怖に、しかし澪は全く頓着していないようだ。
 欠伸とくしゃみを連発しながらも、漣と共に仕事人達と前を歩く。里帰りだと漣に教えられた彼女は喜々としていて、この不穏な闇の中で浮いていた。

 澪はこんな風をものともせず、ずんずん先へ進んでいく。たまに漣が止めて、彩雪達が追いつくのを首を長くして待つ。故郷に帰るのが余程嬉しいらしい。……或いは、友達が家に遊びに来てくれるという感覚なのか。

 そんな平和な目的じゃないんだよ、澪。
 心の中で、嘆く。

 奥へ進めば進む程、風は勢いを失い、代わりに冷たい闇が彩雪達の身体にまとわりつくようだった。
 このまま進んで良いのかな……そう思うのは、彩雪だけだ。皆。静かに進んでいく。

 やがて――――。


「――――もうそろそろ神木の幹が見えてくるころだ」


 主の言葉に彩雪は頷いた。
 もう何度も来ているから、漠然と感覚が覚えているのだった。
 もうすぐ、あの神木に至る。
 そこからは完全に未知の領域だ。晴明や澪達にしか、行き方が分からない異界。彼らからはぐれれば、どうなるか分かったものではなかった。
 深呼吸してどくどくと早鐘を打つ己の胸を鎮めんとする。知らず、足取りも速くなってしまっていた。

 彩雪が一度立ち止まろうとした――――その時である。


 突如として側の茂みが不穏に騒ぎ始めたのだ。


 びくりとして身を堅くした彩雪に、澪が駆け寄る。興味を持ったのか茂みに近付こうとする彼女をすかさず後ろから源信と漣が引き留める。

 晴明が、鼻を鳴らした。


「出迎えのようだな」

「出迎え……って」


 地を這うが如き低い声。それらは複数重なり、まるで地響きだ。
 待ったき殺意を込め爛々と輝く一対の光が、周囲の闇からぽつり、ぽつりと不規則に、大量に浮かび上がる。それぞれがばらばらに瞬きをする様が不気味で、彩雪は舞布を抱き締めずにはいられなかった。

 何だろう……今までのアヤカシとは違う。
 獰猛だけれど、そこには明確な意志が宿っている。
 目的を持って仕事人達にその爪牙を向けているのだ。

 戦慄する彩雪を余所に、晴明は淡泊に呟く。


「式だな」

「え……? 式って、いったい誰が……」

「――――来るぞ」


 晴明が言うが早いか、漣が晴明の前へ躍り出た。
 しっかりと地面を踏み締めて身を引き、前へと乗り出しながら背を反らせ咆哮。

 それに、何か声らしき響きを捉え、彩雪はえっとなった。

 周囲を見渡すが、不思議そうに見られるだけで誰かが声を発したような気配は無い。
 え……誰、今の?
 微かに聞こえた声は、壱号のような高めの少年のそれだった。

 彩雪が声の主を捜している間にも、アヤカシ――――否、何者かの放った無数の式はぼんやりと輪郭が確認できるくらいにまで距離を縮めてきた。
 浮かび上がる朧気な姿は、ゆらゆらと揺らめきともすれば闇に呑み込まれてしまいそうでおぞましい。

 襲いかかってきた一匹を、源信が薙ぎ払う。幹に強か身体を打ち付けた式は苦悶に耳障りな声を漏らして落下する。
 地面に落ちたのは歪な獣ではなかった。
 ひらりと、薄っぺらい一枚の紙だ。不思議な文様が描かれているそれは、風に煽られぱたぱたと動く。もう異形に変わる気配は無かった。


「澪、そこで大人しくしていて下さいね」

「じーとする」

「ええ、そうです。じーっと、待ってて下さい」


 澪の頭を撫で、漣に頷きかけた源信は力の限り地面を蹴り上げる。跳躍して近くの式に躍り掛かる。

 その背後を、一つの火球が猛然と通過した。式の中では大きめの式を包み込み、一瞬で灰にしてしまう。
 壱号の火だ。猛々しい獣のように、貪欲に次々と式を鮮やかな身体の中に呑み込んでいった。

 それを受けたライコウの刀も緋色を帯び、しなやかに軌道を描き複数の式の体躯を両断する。
 力強い一閃が巻き起こす風に札が舞う。

 それと似た動きをする青白い光が、彩雪の後ろを飛行する。
 振り返ればそれは無数の蝶だ。美しい光を鱗粉のように蒔きながら式へ悠然と襲いかかる。

 ……皆、それはもう鮮やかに、式を倒していく。
 呆けたようになっていた彩雪は、漣の再びの咆哮によって我に返った。
 わたしも戦わないと!
 舞布を持ち直し、親指と四本の指の間に挟む。一息に端まで引いてぴんと伸ばしたそれを、近くに迫った猫と鼬(いたち)が融合したような式に叩きつけた。
 弾き飛ばされたそれを、弐号の炎が焼き尽くす。醜い断末魔は聞くに耐えなかった。


「ないすふぁいとやで、参号! 援護は任しとき!」

「ありがとう、弐号君! ――――ったあぁ!!」


 裂帛(れっぱく)の気合いを以て舞布を振るう。弐号の援護のお陰で、気を楽に出来た。肩肘張らずに、冷静に式の奇襲にも対処出来た。
 それに、至らなかった部分はライコウ達が埋めてくれた。
 大丈夫、大丈夫。
 自分に言い聞かせ、力の限り舞布を振るった。



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