肆
仕事寮に集まる頃には、澪は犬の如(ごと)漣とじゃれ合っていた。
それにほっと安堵し、彩雪は視線を和泉に向ける。
彼もまた澪を見ていた。目を細めて、思案顔で。
彩雪の視線に気が付くとにっこりと笑んで前へと一歩出る。
「みんな、しっかり休養は取れたようだね」
「休養ー」
和泉の言葉を繰り返す澪に、一瞬だけ空気が弛む。次の瞬間にはまたぴんと張り詰めた。
今回の密仕は糺の森、そこに重なるように存在する異界で草薙剣を回収すること。
未知の世界に踏み込まなければならない上、心を乱す者は容赦無く弾かれるという。いやが上にも身体に要らぬ力が入っていく。いつの間にか握り締めていた拳を開くと、じんわりと汗を掻いていた。
「当然だけど、俺は今夜も同行することになる」
「え……?」
「ん? どうかしたのかい、式神ちゃん」
彩雪はにこやかに問われて一瞬視線を横に流した。
「和泉がついてこなくちゃいけないっていうのはわかってるけど……」
「けど? 何か不安なのかい?」
多分、今自分は和泉に失礼なことをしているのだろう。
けれど、気分を害した風も無く和泉は至って穏やかに問いかけてくる。彩雪の不安を感じ取って、気遣ってくれているのが分かって、僅かに俯く。
和泉は、子供にかけるような優しい声音で彩雪を促した。
ややあって、
「……危ないんじゃないかと思って」
「危ない……って俺が?」
「うん。もしかしたら、沙汰衆の人たちと会うことになるかも知れないし……」
そこで、彼は納得した風情で小さく頷いた。
「あぁ。つまり式神ちゃんは、俺が前線に立つことを心配してくれてるんだね?」
「……うん。やっぱり危ないと思うし」
彩雪は、これまで和泉が何処までの腕を持つのかを知らなかった。
しかもその相手は沙汰衆だ。彼らの武は恐ろしい程に凄まじく、狂気的だ。
もし和泉が沙汰衆に襲われ、自分達の援護が届かなかったとしたら――――そう思えばこその不安だった。
それすらも見透かしているのだろう、和泉は困り顔で頬を掻いた。
「でも、俺が行かないと剣は抜けないんだよね、これが。……どうしたら、いいかな?」
「それはそうだけど……安全を確認してから行くって言う方法もあると思うし……」
「でも、そうしたら二度手間になってしまうよね。異界でどれだけ時間をかけてしまうか分からない。漣も、二度も案内しないといけない。それにもしも険しい道程(みちのり)だったりしたら、折角休んだ意味も無い。……いや、それ以前に、俺が危険だから退がらないといけないんだったら、当然澪もそうなってしまう。そうすると、漣も澪の側にいないと。異界でなくとも、糺の森じゃ俺や源信でも一度遊びに出かけた澪を捜すのは一苦労だなあ」
「う……」
それからも、負けじと言葉を重ねて説得を試みた。
しかし、どんなに言っても和やかにいなされてしまう。
言葉では絶対に勝てない。
彩雪は肩を落とし、唇を引き結ぶ。
そんな彩雪の様子を見、和泉は小さく噴き出した。
「式神ちゃんは、俺が戦えないと心配してくれてるんだもんね? そっかそっか。うーん、これはちょっと傷ついたなぁ」
「え……?」
「式神ちゃんの前で戦ったことはないけど、とりあえず刀の扱いは結構慣れてるんだよ?」
「結構、ってどれくらい?」
思わず顔を引き締めてしまう。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、式神ちゃん!」
「でも……」
「俺はね、皇都でもライコウに次ぐ腕前――――って言われてるんだよ、これでもね」
最後の言葉で、片目を瞑ってみせる。
彩雪は顎を落とした。
「ら、ライコウさんの次……?」
「まぁね、伊達にライコウの鬼の指導を受けてきてはいないってことさ」
「……」
「あはは、信じられない? なら、聞いてみるといいよ。ライコウ、式神ちゃんに教えてあげてよ?」
そう、軽く話を振った。
が。
当のライコウは伏せ目がちに思案に没入しており、和泉達の会話すら耳に入っていない様子。待てども視線が上げられることは無く、完全に上の空だ。視線が集まっていることにすら気付いているのかすら分からない。
「あれ……ライコウ? そこで、沈黙されちゃう?」
「あ、あの……ライコウさん?」
和泉の言葉も届いていない。
珍しすぎる姿に、彩雪は恐る恐るライコウに近付いて呼んでみる。結果は同じだった。どうしたんだろ……。
源信も近付き、話しかけながらライコウの肩に手をかける。
瞬間、大きな身体が強ばり。瞬く間も無くその手が愛刀の柄を握った。仇敵を見るような鋭い眼差しが源信(なかま)へと真っ直ぐ向けられた。
ややあって、我に返る。
「あ……」
沈黙。
気まずそうに視線を逸らしたライコウは柄から手を離し、源信から一歩離れて頭を下げ謝罪した。
「……何か悩みごとですか?」
「いや、たいしたことではない、気にしないでくれ」
「気にしないで……、って言われてもなぁ。そこまで上の空だとさすがに気になるよ。……まさか、どこぞの姫のことでも考えてるんじゃないだろうね?」
「いえ……申し訳ございません」
……え?
彩雪と和泉は同時に顔を見合わせ首を傾げた。
今の、冗談めかした問いかけ。いつもなら顔を真っ赤にして諫めてくる筈だ。でも、彼は落ち着き払っていて、取り乱している様子は微塵も見受けられない。
「……本当に何かあったんじゃないのかい?」
「い、いえ……、何でもありません。少し緊張しているだけです」
「……」
彼は、和泉と視線を合わせようとしない。
先程からの様子を見ていると、どうにもそれが嘘のようにしか思えなかった。何か、隠している。
探るように和泉が見つめていると、壱号が細く吐息を漏らした。
「何だか知らないけど、気になることがあるなら残ったらどうだ? 戦いで呆けられたら困るからな」
「いや……、すまん、大丈夫だ。そんなことよりも、そろそろ糺の森へ向かいましょうか、宮」
「……ライコウ、何をそんなに悩んでいるかわからないけど、……相談は早めにたのむよ?」
「たいしたことではありません、行きましょう」
ライコウは頑なだ。和泉が案じても、心中を明かそうとはしない。
本当にどうしてしまったのか……。
ライコウに眉間に皺を寄せたのもつかの間、和泉はやや不自然な微笑みを浮かべて出発の声を上げた。
「あぁ、行くぞ、参号。和泉の腕は私が保証する。何度か澪を助けてもいるしな」
「晴明様……?」
一足早く、彼は部屋を出ていく。さらりと放たれた彼の言葉に、彩雪は納得しておこうと無理矢理不安を押し込めた。
けれど、やっぱりまだライコウのことが気がかりで。
大丈夫……だよね。
ライコウを振り返ろうと首を巡らせる。
すると不意に、足下に漣がすり寄ってきた。
見下ろせば尾の蛇がついと首を上げ彩雪を捉える。口を開けて、閉じる。それを何度か繰り返した。
何かを言おうとしているのだろう。彩雪にはそれが、大丈夫だと言ってくれているように思えて、口の動きだけでありがとうと返しておいた。
すると蛇は首を上下に動かし、大きな身体が身を翻した。
彼の行く先には当然澪がいる。
静かだと思っていたら、彼女は退屈だったようで……身体を丸めて眠っていた。
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