※注意



『先生。澪姉ちゃんがいないよ』


 子供に言われた時、氷点下の湖に飛び込んだように全身が冷めた。
 すぐさま学び屋を飛び出し付近や市を捜索したが、漣の姿すら見あたらない。

 漣は澪の側についているのだろう。それを強く強く願う。

 源信は、朱雀大路に出た。
 碁盤状に整備されたこの都。碁盤目のようだと分かっていても迷いやすい。
 それすらも分からぬ澪が小路なんぞに入って闇雲に走り回っていたとしたら――――否、最悪の状態を考えるのは良くない。

 朱雀大路を大股に歩きながら、逸る気持ちを抑えて澪の姿を捜した。
 澪の興味を引く物と言えば専ら食べ物だ。だが、市にもいなかったとなると、他人の食物を追った可能性が濃い。
 漣が、しっかりと彼女に付いてくれていれば良いのだが――――。


「――――源信殿?」


 ふと、足を止める。
 首を巡らせれば怪訝な顔をしたライコウが。

 その姿に、落胆すると同時に安堵を得る。


「どうかなされたのか。酷く慌てている様子だが――――」


 ちらり、と何気なく源信の周囲を見たのは、澪の姿が無いからだ。
 澪も漣も不在で、加えて源信の慌て様。
 ライコウは不穏な何かを察した。


「澪殿と漣に何か?」

「申し訳ありません。学び屋で目を離した隙に、何処かへ行ってしまったようなのです。漣が傍にいるとは思いますが……いつ出て行ったのか分からないので、」


 ライコウは一瞬だけ逡巡した。
 されど一つ頷いて己も捜すと申し出てくれた。
 有り難い。澪に警戒されているとは言え、人手が増えたのは非常に助かった。
 源信は謝罪と謝辞を述べ、それぞれ別の方角へと駆け出した。

 日はすでに、山に身体を埋め始めていた。



‡‡‡




 辺りは、すっかり暗くなってしまった。
 澪は漣と共に、荒廃しきった人家の隅に座り込んでいた。歪んでしまった入り口に辛抱強く垂れ下がる朽ちかけた掛け布が風に揺れ、その隙間から外の様子を窺う。

 澪は、欲深い人間達から逃げていた。
 学び屋の外から香りの良い菓子を見せつけて澪をおびき寄せたのは女。見た目こそ小綺麗ではあったが、黒い髪はがさがさで艶も品も無く、近付くと据えた臭いがした。
 学び屋から少し離れて、漣に言われてそれに気付いた澪は、勿論源信のもとに戻ろうとした。

 けれども、背後から首に刃を当てられ、戦慄した。ライコウに刀を向けられた時のような、全身が凍ってしまったかのような感覚。
 遮二無二暴れて、澪は漣と共に逃げ出した。少し深く首を斬られ、それが更に澪の恐怖を煽った。

 ライコウの刀も、先程の後ろの人間に当てられた刃も、澪は見たことが無い。されどそれが、いとも容易く命を刈り取ってしまう代物であると、深い部分が漠然と察していた。
 逃げなければと澪は漣と一緒に闇雲に走った。何処をどう走ったかなんて覚えていなかった。

 気付けば、ぬかるんだ沼地にぽつねんと寂しく佇んでいた廃屋の前にいて、漣に言われて飛び込んだ。

 人間達が追いかけてきたのはついさっき。
 澪には理解出来ない人の言葉を忌々しそうに交わす彼らは、そのまま息を潜ませる廃屋を覗き込んだ後、黴臭い板と板の間に隠れた彼女に気付かずに何処かへ行ってしまった。
 しかし漣が言うので、まだ外に出てはいない。外の様子を窺って逃げる時を見定めている。

 漣は、板から這い出して傍に座り込んだ澪にぴったりと寄り添う。
 それだけで、物凄く安心出来た。


――――けども。


「いやああぁぁあぁぁぁっ!!」

「ぅぎゃああぁぉぉぁぁぁっ!!」

「……っ!!」


 遠くで聞こえた絶叫に澪は身体を跳ねさせた。
 現世の悔いをそのままに表したような醜く澱んだものであったが、聞き覚えのあるような声だった。
 澪は漣が止めるのも構わずに廃屋を飛び出した。

 踏みつけた泥がびちゃりと跳ねて澪の白い脹ら脛に斑点を作る。

 澪は声を追いかけた。
 まだ聞こえる。言葉は分からないが、己の命に懸命にしがみついて助けを呼ぶ声だ。

 助けるつもりは無かった。助けてしまえばまた捕まって、嫌なことが起こるだろうから。
 ただ、何が遭ったのかを知りたかった。
 それが、人間の世を知ることになると思ったのだ。

 漣も後ろから付いてくる。止めてくるが、抜かるんだ泥が顔などに跳ねて上手く走れないでいる。

 それを幸いにと、澪は走る。
 走って――――見た。


 二人の身体にのし掛かる、二匹の《異形》を。


 足を止めて息をひゅっと吸った。

 あの人間達の物であろう二つの松明が地面に突き刺さっている。その灯りで、異形の姿が分かった。分かってしまった。

 それは、色んな動物の部位を無理矢理繋ぎ合わせたような身体をしていた。
 足は蜘蛛のそれのように細く鋭く、八本ある。
 胴体は――――何の動物だろうか。狸のようでもあるし、犬や鹿のようにも思えた。
 首は長く、恐らくは馬だ。

 そして、人間の肉に無心に食らいつく頭は蜥蜴(とかげ)、だった。

 滅茶苦茶な異形だ。この世に在って良い存在なのかすら、分からない。
 それが、くちゃくちゃと生々しい水音を立てながら、人間の肉を賞味している。

 人間は美味いのだろうか。
 素朴な疑問が浮かぶ。
 されど澪は人間の言葉を知らないし、あの異形にはどの動物に対する話し方をすれば良いのか皆目見当も付かなかった。

 ようやっと追いついた漣が澪の服を噛んで引っ張る。逃げろ、と訴えてくる。
 澪もそうすべきだと、それに応じて身を翻した。

 しかし、背を向けた直後に全身が痺れた。
 ぎょっと振り返ると、異形達が一様に澪に顔を向けていた。

 片方が口を開ける。
 その口が鮮やかに赤いのは、人間の血の所為だろうか。それとも元からそうだったのだろうか。

 澪にはそれが、嗤(わら)っている風に見えた。


 漠然と、彼らの次の《餌》は自分だと察した。


 あの人間達は、《金》と《生》に貪欲だった。
 この異形達は、《食》と《生》に貪欲だった。


 澪の前にいる彼らは、欲深い。



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