七万打企画小説 | ナノ
桃々様




 見られたくはなかった。
 彼女にだけは。

 永遠に知らないままでいて欲しかった。




‡‡‡




 目の前を赤く染め上げるのは、自分達と刃を交えていた人間達の身体に流れる血潮。

 ある者は首から上を引き千切られ。
 ある者は片腕を捻り切られ。
 ある者は上半身と下半身が切断され。
 ある者は引き裂かれた側頭部から柔らかい脳を覗かせ。
 ある者は生きたまま心臓を引き抜かれ。

 阿鼻叫喚。
 地獄絵図。
 その中央に、悪夢の王とも言える存在は悠然と立っていた。

 彼は、《彼》なのだろうか。
 まるで別人……否、全く別の生き物のようだ。
 まさに殺戮の為に生み出されたかのような――――……。

 少女はその場に座り込んで彼を茫然自失と凝視していた。信じられない。信じたくない。

 彼が《彼》だなんて思いたくない!
 敵兵に斬り付けられた腹は未だどくどくと脈動に合わせて熱い血を流し続ける。このまま何の処置もしなければ出血多量で死ぬだろう。
 しかし、少女はそんなことはどうでも良かった。
 どうすれば良い。
 どうすれば、彼を戻せるのか。
 周りの猫族が戦慄の剰(あま)り《彼》を排除しようとすら考え始めているさなか、少女は彼の自我を呼び戻す方法をひたすらに考えた。

 けれども、それも遅く。

 《彼》は天を仰ぎ、己の両手を翳した。ぼたりぼたりと赤い塊が顔に降りかかった。
 暫くそのまま両手を見上げていると、唐突に両手を力無く落として視線を地面へと向けた。何かを捜すような仕種の後に拾い上げた物は、剣だ。《彼》を前に使われることの無かった、研ぎ澄まされた敵兵士の剣。
 そこに、何の躊躇いも無かった。
 少女が止めに入る暇も、《彼》の名を叫ぶそれも無かった。


 《彼》は素早い動作で己が胸に剣を突き立てた。



‡‡‡




 少女は一人、森を歩いていた。
 古びてぼろぼろの麻の外套に全身を覆い隠し、顔までも外套に取り付けられた頭巾を目深に被って半分を覆い隠していた。
 少女の身の丈以上の偃月刀を杖代わりに、急な下り坂の険しい獣道を注意深く一歩一歩確かめるように踏み締めて歩く。

 手頃な岩を見つけると、そこに座って一息入れた。頭巾を外せばそのかんばせが露わになる。頭巾によって押さえ込まれた三角形がぴょこんと立って反動に僅かに揺れる。
 それは、耳だ。
 その少女には人間の耳は無く、猫の耳が頭頂にてその存在を誇示していた。

 疲れの色濃く滲んだ顔を、鬱蒼とした獣道の、見えぬ果てへ向けて長々と溜息を漏らす。

 この森に入ってから、人の入り込まぬ道ばかりを歩いている。
 目的の場所にはまだ到達していない。いや、それ以前に目的地が一体何処にあるのかすら、少女は知らなかった。
 ただ、ここから一里離れた村で、この森の奥深くに探し求める男に良く似た人物が住んでいると言う、何の確証も無い噂を聞いただけだ。森のどの辺で、本当にその人が住んでいるのか、何一つ定かではなかった。
 それでも少女は信憑性の無い噂に縋って森の奥深くを目指す。

 故郷を出てから、ずっとずっとその繰り返しだ。
 根も葉も無い噂を聞きつけてはそれを追いかけ、肩透かしを喰らって痛い目を見る。

 それでも、

 それでも、

 それでも。

 少女は求め続けるのだ。
 愛した男の後ろ姿を。

 もう二年も前になる。
 彼は、瀕死の状態でありながら忽然と姿を消してしまった。目を覚ました直後に誰の目にも留まらずに抜け出してしまったのだろう。少女の養父が様子を見に部屋を訪れた時には蛻(もぬけ)の殻だったという。命よりも大切な、父親から貰った笛を残して。
 少女は即座に彼を追いかけたいと養父に願い出た。仲間――――猫族全体にに反対されても聞かなかった。だって、一番苦しんだのは優しい彼なのだと、少女は分かっていた。

 養父もまた、彼の苦しみをよくよく理解していた。恐らくは、少女よりも。
 養父は彼が何故戦おうとしないのか、音楽にばかり没頭しているのか、その理由を知っていた。

 彼は生まれつき獣化しやすい体質だった。それも、一度獣化してしまえば凶暴などの程度ではない。彼の少し前に獣化した少女の幼なじみよりももっと凶悪で、強靱な、まさに破壊そのものを具現化したような恐ろしい凶器と変わる。猫族も人間も関係なく、周りの生きる物を全て壊し尽くさなければ気が済まない――――いや、本当にそれだけで気が済むのか分からない。
 ただ少し興奮しただけでも簡単に獣化する。故に、彼はいつでも一人で、蔑まれながらも音楽に逃避していたのだった。音楽に心をなだらかにしてもらっていたのだ。それが、父親が授けたたった一つの方法だったから。

 彼は優しい。
 優しすぎるから。獣化しないように、武器を取らなかった。人間を殺そうとしなかった。
 ある人間によって一族が人間達の乱世に巻き込まれた時の悲しくも苦しげな顔の根底には、獣化に対する恐怖があったのだ。

 彼の恐れていたことは、獣化によって仲間を傷つけることだった。
 最悪の形で、それは起きてしまっている。
 彼は獣化した直後に一人猫族の男を殺しているのだ。
 優しすぎる彼にとって許し難い過ちだ。
 だからこそ満身創痍で故郷を去ったのだ。

 嗚呼、彼は何処まで……。

 誰も……自分も、彼の優しさと心の強さと、長い苦しみに気付きもしないで。
 彼は今も苦しんでいると思うと、いても立ってもいられなかった。
 止めた幼なじみ達をはり倒し大切な長も宥め賺して少女は単身故郷を飛び出した。

 だが、未だに見つからない。
 手がかりすら、掴めていない。
 挫けそうになる心を叱咤して、少女は立ち上がる。斜面の先をきっと睨み据えた。大丈夫、と噛み締めるように数度繰り返し足を踏み出す。



‡‡‡




 身体にぶつかる枝葉を掻き分けて掻き分けて、先へと進んだ。
 すると急に視界が開けたのだ。

 小さな泉の畔には小さな家屋。その側には数種の野菜が植えられた畑がある。猫族の村のそれよりもずっと小さい。
 家屋には収穫したらしい野菜が麻縄で縛られて軒下に吊されており、雀が数羽停まってさえずっている。
 獣道の先に浮かび上がった長閑な光景に、少女は足を止めて見入った。

 あの、人の侵入を頑なに拒む獣道の先に、こんな空間があったなんて。

 新鮮な気持ちで周囲を見渡すと、不意に木で作られた引き戸が開けられた。立て付けが悪いようで完全に開くまではかなりの時間を要した。
 思わずはっと息を止めて首を巡らせると、そこから一人の男が現れる。
 鍬を持ったその男は、頭を覆う頭巾からはみ出た髪は無造作に束ねられ、自由に伸びた髭は顔の輪郭を縁取り口すらも覆い隠してしまっている。けれども眼差しは酷く優しく和やかだった。

 だが、それも男が少女に気付くと凍り付いたように堅く強ばってしまう。青ざめている。

 一見、見たことも無い他人のようにも思えるが、少女にははっきりと分かった。同時に温かな波が胸にどうと押し寄せた。
 それは咽をせり上がり、口を通過しては名を通過して涙腺へと登り詰める。
 ほろりと流れたのは涙だ。熱い熱い涙。

 世界が、色付いていくような解放感にも似た錯覚を覚えた。


「……●●」

「関、羽? 関羽、なのか?」


 驚きと疑問がありありと浮かんだ●●の声は震えていた。この世の終わりのような顔をして、関羽を凝視する。
 けども関羽が言を発する前に彼は眦を決して告げた。


「村に帰りなさい、関羽」

「え……」

「君はここにいるべきではないよ。俺は猫族を捨てたんだ」


 穏やかに、しかし突き放すように告げられた拒絶の言葉。

 関羽は目を剥いた。歩み寄って、腕を掴む。振り払われた。


「どうして? わたしは、あなたをずっと捜していたのに……わたしだって猫族を捨てる覚悟で、」

「君は駄目だ。猫族を捨ててはならない」


 「早く帰るんだ」と、●●は繰り返す。叱りつけるように、語気を強めた。
 関羽は激しくかぶりを振って拒んだ。●●のいない猫族など、関羽にとっては何の意味も無い。●●がいなければ関羽の世界は成立しないのだ。
 だのに――――だのに!


「嫌よ! わたしはあなたの傍にいたいの。その為にずっと、ずっと……!」

「駄目だ」


 ●●は頑なだった。顔をしかめて――――不意に関羽の首をがっと掴んだ。
 一瞬で力が籠もって気道を圧迫される。呼吸が止まった。


「ぁ、あ……っ?」

「……」


 関羽の細い首を容赦なく絞め上げる●●は無表情だ。無表情故に、見えぬ殺意があるように思えて恐怖を抱く。
 何故自分が彼に絞められているのか分からなかった。
 何故、自分が●●に殺されようとしているのか。
 分からない。
 苦しい。

 じわりと視界が滲む。
 喘ごうと口を開けても満足な呼吸もままならぬ。徐々に徐々に酸素が足りなくなって、頭が痛いような、首の骨が痛いような、痛烈で漠然とした感覚に苛まれる。

 もう駄目だと意識が遠退きかけた瞬間、解放された。
 地面に倒れて激しく咳き込む関羽を痛ましげに見下ろし、●●は背を向ける。


「帰りなさい。ここに君の居場所は無い」


 冷たい声音は何処か寂しげだった。
 単調なそれが関羽の胸を突き刺す。
 ……嫌だ。嫌。
 わたしは、猫族にいたいんじゃない。

 ●●の傍にいたいの。

 だから猫族の村には帰りたくない!

 関羽はいつの間にか地面に落としていた偃月刀を手にした。


「……っなら、わたしはここで死ぬわ」


 偃月刀の刃を首に押し当て、関羽は決然と言い放つ。

 ●●は肩越しに振り返って目を剥いた。


「わたしは本気よ。あなたのいない猫族の村に戻っても、空虚なだけ。ならばここで命を絶った方がましだわ」

「……関羽。馬鹿な真似は止めなさい」

「本気だと言っているでしょう」


 ぐっと押し当てる。つんとした痛みが走った。片目を眇めるも、刃はそのまま。
 ●●がざっと青ざめるのに、確かな手応えを感じた。
 自分が今小賢しい手段を執っていることは十分分かっている。●●の優しさにつけ込んでいる、意地汚い手だ。
 されどそれでもわたしは●●の傍にいたい。苦しみを少しでも、解してあげたい。


「わたしを傍に置いて。お願い。●●。わたしはあなたを独りにしたくないの」


 懇願に近い交渉に、●●は血の気を失う。「たかがそれだけのことで」と呟くのに、関羽は反発する。そんなことではない。関羽にとっては。
 ●●は暫く関羽を流し目に見つめ、やがて向き直って関羽の前に立ち偃月刀を取り上げた。


「馬鹿なことは止めなさい。君が死んだら、数年前に俺のしたことが無駄になる」

「……っ」


 関羽は奥歯を噛み締めて●●に抱きついた。しっかりと腕に力を込めた。何があっても離れない、確固たる意思を伝えるように。

 ●●は嘆息を漏らした。呆れたような風情で、関羽の頭を優しく撫でる。

 優しい優しい彼は、もう帰れとは言わなかった。

 彼の優しさにつけ込めたとささやかな満足感と共に、突き刺すような罪悪感と背徳感を、関羽は感じた。



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