月華様
鴆(ちん)。
古代より中国文献に見られる猛毒を持つ鳥。
鷲程の体躯のそれは緑色の羽毛に包まれ、銅の色に似た嘴(くちばし)を持つ。
この鳥の羽を浸した酒を鴆酒と呼び、無味無臭の為相手に気付かれずに毒殺が可能であったという。また、鴆の羽毛から採取した毒は鴆毒と呼ばれる。
効果の程は定かではないのだが、この鴆毒は犀角(サイの角)によって無効化されるという迷信が存在する。
‡‡‡
鴆毒、か。
毒の中でも神経毒は恐ろしい。
怠い身体を引きずって幽谷は池の畔にへたりと座り込んだ。
腕の中にある鳥を見下ろし、幽谷は目を伏せる。
全身が思うように動かない。
四凶の幽谷だからこそ、この程度で済んでいるのだ。これが普通の人間であればすでに命は無い。
抱き締めた鳥は鷲程の大きさで、緑色の羽毛に銅のような嘴を持っている。絶息するまで、あと僅かであろう。ここまで衰弱していてはもう手の施しようが無い。
幽谷はその背を撫で、心の中にくすぶる火種に唇を引き結んだ。
「まだ、この世に出回っていたのね。鴆は」
毒鳥、鴆。
暗殺する為によく用いられる鴆酒は、この鳥の羽毛を酒に浸して作られたものだ。
幽谷も、犀家で何度も見かけた。自身が使用することは無かったが、犀家の兇手達は頻繁に使っていた。生きた鴆を、何処からか入手して。
彼らは泣いていた。
胸に抱く鴆もまた、泣いている。
痛いと、苦しいと、帰りたいと。
鴆はただ生きているだけ。毒蛇を食べ、猛毒を持っているだけ。
それなのに、人間達の下らない欲望に利用されて、猛毒を持っているからと存在を排他されて。
まるで、今の猫族のようだ。
犀家にいた頃は気にもしなかったのに、曹操の城の奥で弱っていた鴆を見た時哀れだと思った。
せめて命絶えるその瞬間だけは、あんな暗い地下牢ではなく、外に出してやりたかった。
曹操に黙って連れ出したことは当然咎められるだろう。だが曹操は自分が動物と意志疎通が出来ると知っている。それ故に、多少の融通は聞いて欲しいところだが……許してくれない可能性の方が高いかもしれない。
いや、言い訳は後で考えれば良い。
後はこの身体でどう外に行くか、だ。
鴆に触れないように気を付けなければならないが、迅速な行動が求められる。鴆は、もう幾らも保たない。
幽谷は己に気合いを入れるように腹に力を込めて立ち上がり、ゆっくりと振り返った。
そして、動きを止める。
廊下に夏侯惇が立っていたのである。
腕組みし、胡乱げに幽谷を見下ろしていた。
「……何をしている」
「鴆を逃がそうとしているのですが、それが何か」
隠しもせずに言えば、夏侯惇の眉間に皺を寄せる。けれど何も言わずに、階段を下りて幽谷の前に立った。
彼女の腕の中で沈黙する鴆を見下ろし、彼もまた押し黙った。
そこに、幽谷を咎めようなどという態度は見受けられない。何処か、痛ましげに鴆を見つめているような気がする。少し意外だ。
「どうかなさいましたか」
「良く気が付いたな。城の奥に飼っていた筈だが」
「声が聞こえましたので。……よろしいですか。せめて、息が絶える前に人のいない場所へ連れて行きたいのですが」
「……」
夏侯惇は動かない。鴆を見下ろしたまま動かない。
幽谷は焦れてその脇を通り過ぎようとした。
だが、足から唐突に力が抜けてその場に倒れ込む。咄嗟に身を捩って鴆を庇い、肩を強か打ち付けた。
「……っ」
「っ、四凶?」
足の感覚がより鈍くなっている。症状が悪化したのだろう。歩けない程ではないが、このまま進行してしまうと恐らくは内臓の機能も停止しかねない。死にはしないが、身動きが取れなくなってしまう。
舌打ちして、全身に力を込めて立ち上がると、夏侯惇が待ったをかけた。
「毒にやられたのではないのか」
「ええ。身体の自由が利きません。ですから、急いでいるのですが、分かりませんか」
だから早く行かせろと言外に告げ、幽谷は歩き出す。よろめいたが、何とか歩けそうだ。
思考に霞みがかり始めたような感覚にも襲われるがまだ自我ははっきりしている。この時程、自分が四凶であることを幸いに思ったことは無いだろう。皮肉な話だ。
鴆が小さく泣く。謝意の込められたそれに、小さく笑う。
「あなたは、気にしなくて良いの。私は平気だから」
優しく身体を撫でてやる。
彼はただ、外に出たかっただけだった。閉塞空間にずっと閉じ込められて、心労が溜まるばかりで。食事も咽を通らずに弱っていく己が身を嘆くしか無かった。
それが、幽谷がその声に気付いて連れ出したのだ。
出られたのだから、彼が望んだ外にも出してやりたかった。
階段を上がり城の外へ行こうとすると、
「待て」
夏侯惇が、声色低く制止する。
‡‡‡
主君に鴆の処分を命じられた。
衰弱し死も間近な鴆の毒は結局用いられることは無かった。鴆にしてみれば無駄な一生をここで過ごしたということとなる。
鴆よりも、猫族に目移りした曹操は容易く希少な鴆を斬り捨てた。
弱り切った毒鳥を目にした時、夏侯惇に去来したのは得も言われぬ脱力感だ。哀れとも言えず、罪悪感とも言えず、かといって毒鳥という脅威が側にいないという安堵感とも違う。形容しがたい感情だった。
感情を抱く程思い入れは無かったのだが、毒鳥の縋るような、何かを訴えかけてくる目を見ていると殺せなくなってしまった。
だから、気を落ち着ける為に部屋を一旦出た後、間を置いて戻ってきた時、少しだけ肩の荷が降りた。
更に、四凶が鴆を抱き締めて逃がそうとしているのを見て胸を撫で下ろした。四凶に感謝したくはないが、有り難くはあった。
されどもこのまま四凶に任せきりというのは、自身の責任感が許さない。
「待て」
「……」
四凶は立ち止まらなかった。鴆の毒に身体の自由が奪われつつあるようだから、これ以上の問答を拒絶するつもりなのかもしれない。
夏侯惇は四凶の隣に並んだ。
四凶は彼を一瞥したが、何も言わずに先を《ゆっくりと》急ぐ。
ままに足取りが危うかった。先程のように倒れてしまう程、弱っているのかもしれない。
そうでありながら、鴆の為だけに身体に鞭打って外へ行こうとする彼女に、疑問を感じた。そこまでする必要は無いのに、どうしてか、彼女は鴆を労り鴆の望むように動く。
十三支の為ならば分かる。
卑しい者同士、馴れ合い堅い忠誠を誓っているのだから。
だが、どうして死にかけの鴆にここまで――――……。
兵士達の目を盗み、夜陰に沈んで人の姿も全く無い城下に出ると、四凶が足を止めた。鴆を抱えたまま身体を僅かに前に倒し、深呼吸を繰り返す。
ここまで弱り切った彼女を見るのは、初めてかもしれない。
「……大丈夫か?」
さすがに、そんな言葉もかけたくなる程。
四凶はそれからも何度か深呼吸を繰り返し、小さく頷いて姿勢を正した。気丈にも歩き出す。
夏侯惇は不可解な生き物でも見るかのように、四凶を眺めた。
‡‡‡
静寂に包まれた森は、全身を無機質で不気味な闇に包まれてもなお生き物達の微かな息遣いを感じさせた。
黙して語らず、両手を広げるように広大な自然は、まるで鴆を迎えてくれたかのようで。
鴆は歓喜にうち震えた。
嗚呼!
嗚呼!
……嗚呼!!
望んだ世界が眼前に広がっている!
待ち続けた開放感に身体が軽い!
まさしく自分の住んでいた場ではないか!
卵の殻を自らの力で突き破って生まれ、毒蛇や木の実を食べて過ごした記憶はまだはっきりと覚えている。
自分でも思った以上に高く大きな声が出た。
帰ってきたのだ!
自分は、故郷に帰ってきたのだ!
これは天帝の温厚に相違無い!
だって、だってだってだって。
死にかけの自分を、四霊がここに運んできてくれたのだから!!
嗚呼、何という僥倖(ぎょうこう)だろう!
鴆はその羽を広げる。
飛ぼう。
飛べる。
今の自分なら飛べる。
だって四霊の加護がある。
昔のように飛べる。
故郷を、この風に乗って感じよう!
鴆は躍動する。
――――歓喜故に浮き立っていたのだろうか。
彼は、《己の身体が故郷にいた頃よりも酷く軽い》という点に、全く気が付いていなかった。
‡‡‡
死んだ。
鴆は森に入って数歩歩くと掠れた鳴き声を漏らし、僅かに羽を動かして絶命した。
四凶の腕の中で、身動ぎ一つしない、人に恐れられた毒鳥に、四凶は微笑みを浮かべて「お休みなさい」とまるでややこに言うように穏やかな声をかけた。
草の絨毯にそっと寝かせ、懐から取り出した札を張り付ける。
すると、一呼吸置いて鴆の身体が発火する。
一瞬で赤い炎が身体を包み、息絶えた鴆を喰らう。
四凶はその様を側に片膝をついて見守り続けた。
許昌を出てからは転倒も格段に増え、呼吸も浅くなった彼女は、今はもう限界であろうにそれでも満足した炎が消え、白骨が現れるのを認めるまで気を失うことも無く、目も逸らさずに見届けた。
そして、細く吐息を漏らして倒れ込む。
咄嗟に夏侯惇が支えなければ、側の岩に頭を殴打していただろう。
「大丈夫か?」
「……すみません。鴆の毒だけは、何度受けてもすぐには消えなくて……」
夏侯惇から離れ、立ち上がろうとするが、顔面は重病人の如く土気色。今立ってはいるが、生きているのかすらも怪しい。
夏侯惇は四凶の身体を抱き上げて近くの木の根本に座らせた。寄りかからせて自らは隣に腰を下ろす。
「……お帰りにならないのですか」
「俺は曹操様に鴆の処分を任されていた。それを、先にお前がしてくれたのだ。このまま帰ることは出来ん」
言って、しまったと口を閉じた。
『してくれた』だなんて。
これでは四凶に恩を感じているようではないか。
撤回しようと振り返ろうとした彼はしかし、肩に感じた重みにぎょっとした。
「な……っ!?」
鼻孔に入り込んだ香りに身体が強ばる。
されども、振り払おうとした手は途中で動きを止めた。
夏侯惇の肩に寄りかかった四凶は苦しげに顔を歪め、気を失っていた。
敵とも言える夏侯惇に、四凶が無防備に気を失い毒に苦しむなどと余程のことだ。
一体、どれだけ耐えていたのだろうか。
……鴆の為だけ、に。
夏侯惇は目を細め、やがて小さく吐息をこぼした。
「――――これで、貸し借りは無しだ」
それは、彼女と自分、どちらに放った言い訳だったのか。
夏侯惇本人にすら、分からなかった。
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