紗々羅様
「今日も、天気が良いね」
『そうだね』
私は箒を持って庭に出てすぐ、側の木の上に止まった雀と言葉を交わした。
周りから見れば奇異な光景だろうけれど、私にとってはもうこれこそがありふれた日常だった。むしろこちらの方がしっくりくる。私の世界を構成している。
昔から、私は動物と会話が出来た。
動物にとっての言葉を、私の頭は自動的に人語に変換する。動物が私の言葉をどう理解しているのかは分からないけれど、私と似たような感じなのだとは思う。
物心付いた時からそうだったから、幼い頃はそれがおかしいことだなんて夢にも思わずに当然のことのようにそれを口にして、気味悪がられた。今ではすっかりご近所に敬遠されてしまっている。
両親も表立って口にはしないがきっと私のこの能力は疎ましいことだろう。私の能力の所為で、随分と肩身の狭い思いをしているのだもの。それに、これじゃあ嫁にも行けないし。
没落したとは言え、元は武門の家系だった私の家には、曾祖父が立てた立派な道場も、娘がこれでは潰れる他無い。
そう、噂されているのを鳥達から教えてもらった。
いっそ私が家を出れば良いのだけれど……ね。
この乱世、一人旅に出る勇気は持っていない。
それに――――。
『――――ああ、来たよ』
「えっ」
からかうような軽い言葉を置き去りにして、雀が飛び立った。
頑張ってとさえずる雀を恨みがましく見送り、箒を動かす。
来たからって、頑張れって言ったって、私にどうしろって言うのよ……。
振り返れば、母屋から道場に続く渡り廊下を父と並んで歩く男性が視界に入る。
私よりも少しばかり年上で、細身のその人は、この許昌を黄巾賊からお救い下さった曹操様に従う武将。許昌で一人黄巾賊と戦っていた父に師事している。
彼の名前は、夏侯惇、様。
……ええ、まあ、はい。
一目惚れです、ごめんなさい。
けれども私はしがない変な能力を持った娘。彼は勿論普通の男性とだって恋は出来ない。多分、一生そうなんだろう。
だから今、道場へ消えていくその姿を見送るだけでも十分だ。
そう、自分に言い聞かせる。
『今日も話しかけないのかね』
「……あ、こんにちは」
垣根の隙間から老いた雄猫が現れ、呆れたようにそう問いかける。
足にすり寄ってきた彼に私は腰を屈めて、手を伸ばした。
『こんにちは。それで、今日こそ、接触するのかね』
「まさか。私は見ているだけで十分なの。身分が違いすぎるわ」
『身分、身分、身分。人間の世界はかくも面倒なことだ。あたしらのように、好き勝手に生きりゃあ良いのにさ』
「そうねぇ……私も、人の中にいられないなら、いっそ動物に生まれたかったわ」
そうすれば、もっと楽に生きられたかもしれない。
動物と話せるなんて、素敵な力だって、私は思ってる。
だけど周りの人はそうじゃない。普通の人には無い力を持っている私は、異質で、気味が悪いんだ。それが、正しいこと。
夏侯惇様も、多分この力を知っているだろう。この近所じゃ、知らない人はいないから。
彼も気味悪がっているかもしれないと思うと、物凄く怖いんだ。
否定されてばかりの私のこの力。この力は人として間違いで。
もしも夏侯惇様にも否定されてしまったら……私、自分のことが嫌いになってしまいそうだ。
だから私は夏侯惇様に近付けなくて良い。
私みたいなのは、遠くから見るだけで十分なんだ。
素敵な力を、嫌いになんてなりたくないもの。
『お前さんは良い子だよ、○○。あたしらはいつでもお前さんの味方だ』
「ありがとう。でも、黄巾賊に襲われた時みたいな無茶は止めてね」
頭を撫でれば雄猫は目を細める。
そして、彼もまた私に頑張れと声をかけて庭を横断していった。この庭は、お気に入りの場所への一番の近道なのだそうだ。
私は苦笑を浮かべて、雄猫のお尻に向けて片手を振った。
‡‡‡
「○○。あんたまたうちの子と会ったそうじゃないか。止めてくれとあれだけ言っていたのに」
私は肩を縮めて俯き加減に平謝りした。
買い物の途中、私に噛みついてきたのは近くに住む主婦だ。彼女は自分の娘が私と会うことが気に食わないらしく、少しでも言葉を交わせば食ってかかる。
挨拶くらい交わしても良いじゃないかって思うけれど、私は黙りを決め込んで彼女の理不尽な言い分を受け止めることにしていた。この人は、自分がこうと定めたことを否定されると逆上してしまう、少々面倒な性格だった。反論したって無駄だって、とうの昔に分かっていた。
だから彼女の気が済むまで、私は黙り続ける。長いが、それももう慣れた。
いつも通り、耐えれば良いのだ。
そう自分に言い聞かせて堪え続ける。
「うちの子に近付かないどくれ。どうせ、こないだ向かいの爺さんが死んだのだってあんたの所為なんじゃないのかい」
「……」
「何とか言ったらどうなんだい? つくづく、気味の悪い娘だよ、本当に……さっさとこの街から出て行けば良かったのに……」
何も反論するな。
言い返しちゃ、駄目。
悔しくても唇を引き結んで耐え続けるんだ、私。
地面を睨めつけ、彼女の文句が止むのを必死に待つ。
――――けれども。
「それは言い過ぎではないのか」
「あ……」
話が止んだのは、第三者の声が入ってきたからだった。
聞き慣れない声に視線を動かした私は、はっと息を呑んだ。
「か、夏侯惇様……」
主婦が呟く。
私は思わず一歩後退した。視線を落として深く一礼する。
「夏侯惇様。今のは……」
「聞けば、師範のご息女は黄巾賊に襲われた子供を、動物達と一緒に助けたそうじゃないか」
主婦は口を噤む。
夏侯惇様の仰る話は事実だ。
黄巾賊と戦う父の助けになりたくて、動物達に話を聞いたりして、戦えない老人や子供達を黄巾賊の目から上手く逃そうとしていたのだ。
その途中で子供が、私に食ってかかる主婦の娘が襲われて、それを庇ったのを動物達が守ってくれたのだ。幸い、誰にも怪我は無かったけれど。
そのことは、子供達や老人達しか知らないと思うのだけれど……その人達から聞いたのかな。
「俺は、戦えないながらに黄巾賊から非力な者達を守ろうとした彼女が、かような扱いを受けるその意味が分からん」
「夏侯惇様。この娘は、変なんですよ。動物と話せるとか何とか意味の分からないことを昔っから言って、今でも動物とばかり話して……不気味なんですよ」
蔑視を向けられていると、何とはなしに分かった。
けれどこれも慣れている。
慣れているんだ。
だから、平気だ。
ただ……夏侯惇様を見るのが怖い。
逃げてしまおうか、と思ったその瞬間だった。
「……そうか、残念だ。俺の恩人がそこまで悪し様に言われているのは気分が悪いな」
「お、恩人?」
私の肩が震える。
怖ず怖ずと顔を上げると、夏侯惇様が私をじっと見ているのにもう一度身体を震わせた。
「黄巾賊と交戦した時、俺は烏に助けられた。その側に、彼女がいた。彼女が烏に指示をして俺を援護してくれたことは明らかだ」
主婦は鼻白んだ。私をきっと睨めつけて、夏侯惇様に頭を下げて、半ば逃げるように足早に自宅へと戻っていく。
――――覚えていて、くれたんだ。
全身が熱くなるような感覚。歓喜しているんだって、遅れて気が付いた。
夏侯惇様は私の力を気味悪がっていない。それが分かって、本当に嬉しかった。
私が深々と頭を下げると、夏侯惇様は吐息を一つ。
「顔を上げてくれ」
「……は、い」
顔を上げる。
姿勢を伸ばして出来るだけ礼儀正しい佇まいをしようとすると、彼は唐突に頭を下げた。
「あの時の礼が遅れてしまった。手助け、感謝する」
「手助けだなんてそんなた、大それたことじゃ……!」
勿論私は慌てた。
肩を掴んで無理矢理に顔を上げさせて、謝罪する。私のような庶民の中でも排他されるような人間に、許昌を救って下さった方が頭を下げてしまうなんて、なんて恐れ多い。両親に怒られるなんてものではない。
「本当に手助けなんてものじゃないんです。ただ、あの、あの時は咄嗟に烏さんにお願いしてしまって、むしろ邪魔になってしまったかもしれなくて……すみません」
「いや、お陰で持ち直せた。謝られることではない」
「で、でも――――」
『あら、声をかけてもらえたの?』
「あ」
足に、ふぁさりと触れた温かい塊があった。
見下ろせば愛らしく毛並みの美しい飼い犬だ。
尻尾を振って私をからかってくる彼女に、私は身を屈めて頭に軽く手刀を落とした。
「こら。また家を抜け出してきたのね。蘭春さんが探し回るわよ」
『そうやって、飼い主の運動不足を解消してあげてるんじゃない。それよりも、どう? 上手く行きそう?』
「だから、そういうのはもう良いんだって言ってるじゃない。私は現状で満足してるの。ほら、分かったら早く帰りなさい! 蘭春さん、あなたを探す時本当に心配してるのよ。たった一人の家族なんだから」
『やぁよ。あの人運動しないんだもの。人間適度に身体を動かさないと身体に悪いんでしょう?』
「それはそうだけど、それとこれとは話が別ですー」
両手で口の皮を摘んでぐいと左右に引っ張ってやる。
すると飛び跳ねられて逃げられた。
「あ、こら、待ちなさい!」
呼び止めても、無駄だった。
はあと溜息を一つして、私は夏侯惇様に頭を下げる。
「……すみません。話の最中に」
「いや、構わない。礼が言いたかっただけだ」
そこで、夏侯惇様は何かを言おうとして、躊躇う。つかの間視線をさまよわせ、何故か頬を赤らめる。
何か言いたいようだが、なかなか言い出してくれない。
こうなると、私の方も気になってくるんだけどな。
「あの……」
「……○○殿、だったか」
「あ、は、はい。私の名前は○○です」
名前は、父に聞いたんだろう。
頷いてみせると、彼はまた寸陰躊躇を見せて、意を決したように口を開いた。
「その力は、誇って良い。父君も、黄巾賊に襲われていた際の○○殿のことを褒めておいでだった」
「……父が?」
初耳だ。
瞠目すると、夏侯惇様は更に顔を赤くして、言葉を続ける。
「俺も、その力は悪いものとは全く思えん。むしろ、その力があれば人間には出来ないことが可能になる。本音を言えば、その……羨ましい」
「……うらやま、しい」
これも、初耳だ。
しかも相手は夏侯惇様。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
視界が滲んでしまう。
咄嗟に俯いた私は早口に、
「ありがとうございます。嬉しいです……とても」
「そうか」
何度目になるだろう、深く一礼して、その場から逃げた。
嬉しい。
本当に嬉しい。
私以外の人間が肯定してくれたことが。
それが、夏侯惇様だということが。
私は建物の影に隠れて、袖で目元を拭った。
きっと、今の私の顔は大変なことになっているだろう。
ああ、暫くは出られないかな。
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