七万打企画小説 | ナノ
紅蓮様




「関羽さん」


 恒浪牙に引き留められた時、関羽はやはり、と心の何処かで納得していた。
 彼ならば、かの地仙ならば、きっと幽谷の為に自分に話しかけてくるだろうことは、随分と前から分かっていた。

 ほぅら……振り返れば彼は関羽に同情するような、呆れ返ったような、怒っているような、関羽にとって決して良いものではない顔をしている。
 関羽は笑みを浮かべ素知らぬ振りをした。


「どうかしましたか、恒浪牙さん」


 恒浪牙は細く吐息を漏らした。やれやれと言いたげに首を左右に振り、笑みを消す。

 地仙の、途方も無い年月と叡智を湛えた瞳に何の感情も浮かばないというのは空恐ろしい。
 思わず一歩後退してしまった。

 それでも笑みを張り付ける関羽に、恒浪牙は冷淡に告げる。


「嘯(うそぶ)かれるのは結構ですが、いい加減にしておかなければ、あなたにとんでもない竹篦(しっぺ)返しが来ますよ」


 それは警告だった。
 止めることはしないが、その先にあるモノがどんなものであるかをほのめかしていた。まるで、訪れる結果を分かっているかのように。
 それが少しだけ癇に障って関羽は笑みを崩した。眦を決して恒浪牙を見据える。彼は依然氷のような無表情のままだ。


「どういう意味ですか? 仰っている意味が分かりません」

「そうですか。それがあなたの選択ならば何も言いません。……ただし、《その時》になっても私はあなたを助けることはしませんよ。もう、あなたはその道を歩いてしまっている。戻ることは出来ません。あなた自身が、手遅れだ」


 ふっと浮かべた地仙の笑みは暗く、荒んでいた。

 それに、関羽は背筋に冷たいモノが落ちたような不気味な感触に襲われた。



‡‡‡




 悪寒が、収まらない。
 恒浪牙と別れた後、角を曲がって人気の無い場所まで走った関羽は物影に隠れるとその場に座って震える己の身体を抱き締めた。

 どうしてだろう。
 恒浪牙の言葉がぐるぐると頭の中を巡って消えない、離れない。

 彼はきっと、永い人生の中で関羽のような人間と、その行く末を見てきたのだろう。だからあんなことを言ったのだ。
 けれども自分は違う。彼が警告したような結果になりはしない。絶対に……ああ、絶対だとも。
 それなのに、恒浪牙の言葉は頭から離れてくれない。呪いのように関羽を縛り、苦しめた。
 ぞわりぞわりと見えない何かに心を撫でつけられる。その度に不安が大きくなり、痙攣する。

 何か、嫌な予感めいている。

 いいえ、そんなこと無いわ。
 だってまだ幽谷には知られていないもの。
 だからまだ大丈夫。これからも大丈夫。

 関羽は自身に言い聞かせ、駆け出した。

 幽谷のもとに行く為だ。
 幽谷は美しい。
 だからこそ、たった一人不要な蟲を排除したとてまた別の蟲が現れてしまう。それを幽谷の知らぬところで徹底的に払い除けるのが自分の役割だ。
 だって幽谷は、関羽だけの幽谷なのだから。
 それが一番正しいこと。幽谷の為になること。
 関羽は幽谷の主人として、親友として、至極当たり前のことをしているのだ。


「――――幽谷!」


 彼女は鍛錬場にいた。夏侯惇と手合わせをしていたらしく、汗を拭きながら何かを訊ねる彼に、涼しげな風情の幽谷が答え、時折匕首を持って腕を動かしてみせる。
 その様に、心がささくれ立った。
 けれどもその程度で動いていてはきりがないし、疲れるだけだ。夏侯惇なんて幽谷にとっては一時の戦友。関羽の意思一つで敵に変われる。そんな容易く脆い関係にまで口出しする程関羽も狭量でも考え無しでもなかった。

 幽谷を呼ぶと、彼女は関羽を見、一瞬だけ苦しそうな顔を見せた。
 えっとなって立ち止まると夏侯惇に目配せし、彼が頷くのを見届けて拱手する。

 匕首を懐に隠して関羽のもとへ参ずる幽谷は取り繕ったと分かるぎこちない笑みを浮かべ、話があると、中庭へ誘った。

 関羽はそれに不穏なモノを感じた。拒否しなければならないような気がして、けれど拒否してしまえば何かが終わってしまうような気がして、結局は困惑しながら幽谷に従った。

 目的地に至るまで、幽谷は何も発しなかった。関羽から会話を持ちかけてみても、短い言葉で返され、そこで終わってしまう。
 幽谷の様子が明らかにおかしい。
 関羽の中で不安が膨れ上がる。五月蠅いくらいに恒浪牙の言葉が頭の中で反響する。

 まさか。

 まさか。

 まさか。

 有り得ない。

 階段を下りて池の側に立った幽谷は関羽に向き直り、一旦目を伏せた。己を落ち着かせるように、深呼吸を二度。目を開いて関羽を見据えた。

 そして――――。


「《  》殿を殺めたのは、関羽様だったのですね」


 彼女は彼女が見てはならぬ物を暴いてしまったのだ。



‡‡‡




 全ての音が失せてしまったように思う。
 全てが無彩色になってしまったように思う。
 全てから情緒が消え去ってしまったように思う。

 あの日、あの時から。
 世界は反転した。
 当たり前のものは悉(ことごと)く排除され、一切の感覚とそれに伴う感情を斬り捨てられた。

 親友は許してはくれなかった。
 守り続けた主を責める代わりに、己を責めた。責めて責めて――――ある償いを選択した。


「――――」


 声無き声が叫ぶ。謝罪する。懺悔する。

 過去に戻りたい。やり直したい。
 そんな無駄な願望が主の、関羽の胸を容赦なく斬り裂いた。
 地面に力無く座り込んだ彼女の傍らにはぐったりと横たわって動かない女の姿。静かに伏せられた睫毛は土気色の肌に影を落とす。唇は紫と黒を混ぜたような不気味な色に変色してしまっていた。首筋には一本の線が横切っており、頸動脈にまで至っていた。その周囲も、その一体の床も、真っ赤に塗れていた。所々、固まって茶色になっていた。

 未だ乾かぬ血溜まりには匕首が浸っていた。女が、許してくれなかった親友が愛用していた得物だった。
 今まで数え切れぬ命を刈り取ってきた刃が最後に刈ったのは、持ち主の命。

 親友は、主の罪を精算する為に、己の命を捧げたのだった。
 そこには逃避もあったのかもしれない。
 心に微かに残ったかの男への恋情の燃え滓があったのかもしれない。
 死んでしまった以上、真意を知る者は誰一人としてない。関羽ですら、分からない。

 ただ。

 戻らない。
 失われた物は二度と戻らない。
 それだけは、どんな力を与えても動かない事実なのだと分かっていた。

 言葉にもならぬ、声も乗らぬ叫びを上げ続ける関羽に、背後から地仙は近付いた。一切の表情を消し去った彼の細いまなこは関羽を捉え、無機質に瞬きを繰り返す。


「これはあなたが招いたことだ。あなたが道を誤らなければ、こうなりはしなかったでしょう」


 地仙の声は抑揚に欠けていた。まるで水のように、関羽の鼓膜を通り抜けていく。
 関羽は地仙を見ない。地仙の存在に気付いていないのか、叫びを止めない。

 地仙はそれに構わず言葉を続けた。


「……幽谷は、最後に何を私に願ったと思いますか」


 関羽の側に片膝を付き、その頭を鷲掴みにする。
 早口に何事か唱えて暫くすると彼女の華奢な身体が大きく跳ね上がり、地仙に倒れ込む。

 彼は無表情を動かさない。


「あなたを、愚かな自分に代わって私に守って欲しいと」


 気を失った彼女には届いていまい。
 地仙はほうと吐息を漏らし、関羽の身体をそっと抱き上げた。

 身体を反転させれば、そこには曹操と夏侯惇が。
 幽谷に関羽の過ちを知らせたのは、そうするよう曹操に命令された夏侯惇だった。痛ましげに関羽を、幽谷を見やる。
 曹操も夏侯惇も、関羽の狂気に気付いていた。

 或いは幽谷も、気付かぬフリをしていたのかもしれない。

 息絶えた天帝の道具にを見下ろし、ようやっと彼は表情を動かす。


「なんと、哀れな」


 それは、どちらに向けられた言葉だろう。



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